このところ、世の中の報道に惑わされて、過去についてばかり語って来たが、歴史が過去から現在という瞬間を通り抜けて未来にまで繋がっているものである以上、未来についても語らなければならない。
まず、歴史というのは、過去から未来に向かって進む、というのであるけれども、人類歴史というのは、日本体育大学がやってのける「集団訓練」とは違うので、全員が一定の意図に従って整然と動いて行くものではない。
自分のイメージとしては、それは、たくさんの車両が連結されたトレイン構造をしている。ところが、このトレインは決して線路の上を走行なんかしていない。そして、最前部では、常に新しいモデルの車両が建設されている。
人類歴史の発展というのは、一両ずつ新型の車両が完成すると、そこに後方の車両から多くの人々が乗り込む、というかたちで前へ前へと進むものなのだと思う。だから、それは車両の構造をしており、全体としては前に進んでいるのであるけれども、実際には、一定数の乗客が後方の車両から歩いて前方の車両に乗り移る、という方法で、歴史は前進しているのだと考えている。
だから、この長い人類トレイン全体を見渡すと、その最後部車両には、パプア・ニューギニアとかアマゾンの部族がいまだに乗車していて、彼らはどうやって動物を狩るか、伝染病の患者をどうやって呪術で救うか、といった日々の問題をいつも考え続けている。
本ブログの読者は、この人類トレインの結構前側の車両に乗車しておられるだろう。車両の中にはグリーン車もちらほら連結されているので、グリーン車で快適な生活をされておられるかも知れないし、自分のように大衆的な座席で我慢している者もいることだろう。
問題は、その最前部で今建設されているのが、どんな車両なのだろうか、ということである。
安倍談話では、植民地主義とブロック経済に対する批判が出されていた。これは経済的に恵まれた者が、その利権を守るために、自分たち以外の階級や人種の者が文明の恩恵を受けることを排除し、その到達した文明の恩恵を独占的に支配しようとして起こったことだ。そして、その態度が戦争という災禍を招く、というあたりまでを人類は学んだ。
そうであれば、次の社会モデルは、それを解決したものでなければならないことになる。
それで、一昨日アメリカからちょっとした里帰りをなさった方が教えてくれたちょっとしたものが、さすがアメリカ、人類文明の最先端だなあ、と感じさせるものだった。それが、ウーバー(Uber)という新サービスなのであるけれども、仕組みとしては、タクシーでどこかに移動したい、と思う時に、スマホでこのウーバーを立ち上げ、あそこに行きたいんだけど、クルマはちょっと高級なヤツで、すごく安全運転な人がいいな、とか希望を打ち込むと、クルマがやって来る。そのクルマの運転手は、実は近所で大工仕事をしている人なのだが、今日は仕事が入っていないので、ウーバーの運転サービス提供側に登録しておいたのだ。クルマ好きな彼は、そういう日はクルマもきれいに整備してあるし、事故歴が少ないことも登録してある通りである。
そういう訳で、フレンドリーな性格の彼はお客を乗せて目的地まで無事に届け、道々、今度ガレージのドア見てあげますよ、と本業の営業までしてしまうのだった、というようなことになるのである。
さて、このウーバーというシステム、サンフランシスコで起業してから、世界に向かってサービスを拡大中なのだが、どこでもタクシー業界と大バトルになっている、ということである。
このビジネスのどこが面白いのかというと、それが所有権という、近代社会の概念を見直すものではないかと思えることだ。クルマを購入する者は、その所有権を得ることになる。登録という面倒くさいこともしなければいけないが、ともかく、クルマはその所有者のものである。そして、多くの時間、クルマは車庫や駐車場に駐車しており、ドライバーは自宅で寝ていたり、会社で仕事をしたりしている。
もし、無人運転が普通になったら、自宅の車庫や会社の駐車場に停まっているクルマは、公共財である、という見方ができるであろう。要するに、ヒトとモノとの関係が、所有者と所有物という狭い関係性から解放されて、求めるヒトと求められるモノとが、ネット環境のもとで自由に組み合わせられて、その最適化が図られるのではないか、ということである。
モノは、どんなモノも、シェアリングの対象になることができるのではないだろうか。そして、それは社会が近代化する以前は、人間社会において当然のことと思われていたのではないだろうか。山は長い間、村人たちが自由にそこに入って木を伐採したり、食材を獲得したりすることのできる共有地だった。明治時代になって、フランスの民法を無理矢理日本社会に適用したのだったが、この村人が共有する山の利用問題をどう調節するかは、どんなにフランス民法を研究しても分からなかったところ、結局、入会権(いりあいけん)という独特の権利を案出することによって、その問題を解決するようになった。現在では、多くの場所で組合が結成されて、民事上の権利が保護されるようになっている。
さて、近代社会が個人によるモノの所有を絶対的な概念として導入したのに対し、次の時代の新たな基礎概念は、おそらくシェアリングである。自分は自分の所有物しか消費できない、という厳格なルールに従って生きる社会よりも、誰でも使いたいヒトが自由に使えばいいじゃん、という信頼と安全によって守られる社会の方が、効率が良く、快適でもあるはずだと思う。
そこでテーマとなるのは、悪いヤツが出て来るよね、という問題だろう。もちろん、所有権をしっかり区分する、という近代社会でも悪いヤツが出て来て、窃盗や詐欺が毎日繰り返されている。シェアリングする社会でも当然悪の発生はあり得るのだが、普通にメンバーとしての倫理観さえ持っていれば、ストレスなくモノをシェアリングすることがやりやすい社会であれば、わざわざルールに違反するメリットが少なくなる、ということも考えられるし、そのあたりも、時代を前に進めながら考えれば良いことだろう。
シェアリングする社会、というのは、日本人の意識構造の中では割と導入が進みやすいようにも思う。だから、所有からシェアリングへ、が時代の最先端なのだとすれば、最前部車両を最初に完成するのは日本である可能性もあるだろうと思う。
「もったいない」から、「どうぞ良かったらお使いください」「じゃあ、こちらもお使いになって」へは、そんなに遠くないであろうし、シェアリングを行政がサポートすることで、住みやすい街が生まれて来るのではないかと思う。
シェアリングという仕組みがヒトをより正直にし、親切にする、そういう仕組みが、おそらくポスト・モダンというものの中身なのだろうと思う。

3