このところ宗教に悪態をついているのだけれども、いわゆる世界宗教の教祖について言えば、大変立派な人物揃いであって、全然文句を付けようとは思わない。ただ、それぞれの時代とか言語が違うために、おのおのがまるで別々のことを言ってでもいるかのようにバカ弟子たちが考えるところから、こんなにも多くの問題が生まれるのだろう。そういう過去の偉い先生方の考えを、使い勝手が良いように定型化したり、数量化したりする、というような努力については、経済学の分野が一番進んでいるのではないかと思う。経済学の分野には数学者がどんどん新規参入して来た、という経緯もあり、文系の学問の中では、経済学が最も論理的な整合性を備えている。そういうことなので、ぐだぐだな宗教問題を解決するためには、それぞれの教祖たちの言説をなるべく一般理論化する、ということに、人文学系の学者はもっと注力すべきだと考える。
そんなことで、私が思いついた新理論は、「T-Gバランス」である。これは、阪神タイガースと読売ジャイアンツではどっちが強いか、というようなアブナイ、というか定式化不能なことを言うのではない。これについては、完全に主観的な判断だけでOK、ということにしておかないと、遺恨ばかり発生するのでろくなことはない。
私の理論は、"Give and Take"という言い方から生まれている。この言い方では、まず"Give"があって、その後に"Take"が出て来るのだが、その関係にはもう少し深い理解が必要だと思うのである。
サラリーマンをやると財務諸表を読まなければならないことになるが、そうすると簿記の仕組みを理解することが必須だ。複式簿記では、「借り方」がまずあってその後に「貸し方」が来る。入る方が先であって、その次が出る方だ。
我々の人生における総勘定元帳を作成しようとすると、やはりまずは「借り方」から認識する必要があるだろう。実際に、「おぎゃあ」と生まれてから人生が開始するものだとして、お世話になることはあっても、決して赤ん坊が誰かをお世話する、という例はない。誰でも、まず「借り方」から人生の記帳がはじまっているはずである。そうして、次第に大人になるというのはどういうことかと言うと、今度は「貸し方」にも記帳がはじまる、ということであると思う。最終的に人生の決算を実施する段になって、もしも「借り方」が「貸し方」を上回っているとすると、その差分というのは、子孫または関係者への「ツケ」として処理される。すなわち、複式簿記の原則と同様、個人において「借り方」(=Take)と「貸し方」(=Give)は完全にバランスする、というのが、我々の人生のあり方だ、というのが、私の仮説である。
そうだとすると、人生の最終形としては、T = G が必ず成立する、というのが、生きることの意味であることになる。一高生藤村操が華厳の滝で投身自殺したのは1903年だったから、今時そんなことを覚えている者は少ないだろうが、当時は大ニュースだった。彼が自殺した理由は、彼がそこに生えていた木の表面を削って、そこに遺言をしたためた(すなわち、環境破壊)ために世間の知るところになったのだが、人生が「不可解」だったからである。いちいち人生が不可解だからと言って、自然木に落書きをする行為は、良い子が決してマネをしてはいけないことだ。
だが、明らかなことは、彼が世間から受けた恩義(その総量を"T"とおく)を、彼が世間に返した功績(その総量を"G"とおく)と比較すれば、T > G の関係が成立しているだろう、ということである。そうであれば、差分である (T-G) は、そのまま彼の負債として、彼には子孫がいないから、まあ彼の関係者が引き受けざるを得ないことになる。
そういうことを考えると、我々が生まれた時、我々は完全なゼロ状態から生まれることはできなくて、自分に至るまでの関係者が後世に残した (T-G) を背負って自分は生まれる、という大変な残念な結果を我々は知るであろう。我々は煩悩の中に生まれ落ちたのである。
ではどうすべきなのかと言うと、我々にできることは、なるべく人生で受け取る"T"量を減らして、人生で誰かに与える"G"量を増やす、ということでしかない。では、自分一個人において、最終的に T < G が成立すれば、それだけで問題が解決するのかと言うと、そうではない、というのが私の理解だ。
世界宗教の教祖たちのフォーマットには、全世界、あるいは全宇宙というようなものがすっかり入っている。その宇宙の原点をまあoriginだからということで、"O"とおくことにしよう。
それに対して、自分のことは、英語の一人称を利用して"I"と呼ぶ。すると、宇宙の構造というのは、"O"を中心点として無数の"I"から構成されているのだ、と見ることができる。
そして、たったひとりの"I"の生き方を問うことをミクロ倫理学とすれば、宇宙全体における生き方の総和を考えるマクロ倫理学が成立すべきであろうと思う。
自分という"I"は、毎日何をしているのかと言うと、小さなことで誰かの世話になる、単品としての"t"を受け取りながら、他方で誰かの世話をする、単品としての"g"を出力している。そういうことが非常に多くの"I"の間で取り引きされているとするならば、そこに経済学の用語で言えば、乗数効果(Multiplier effect)が生じる。あるいは金融論が好きならば、信用創造(Money creation)が発生する、と見ることができる。それは何かと言うと、まず自分という"I"に一定量の"t"が投下されたとして、それはそれだけにはとどまらず、そのうちのある割合は自分によって消費されてしまうかも知れないが、残余の部分は、別の誰かにとっての新たな"t"(自分から見れば"g"であるが、ここでは g = t が成立すると見る)が生じる。するとそれもまた、さらに別の誰かにとっての新規な"t"の原因として働くのである。"I"が非常にたくさん存在するためにこの乗数効果は発生し、結局、中心点の"O"が宇宙創造のために投入した初期投資に相当する"G"、それは宇宙あるいは被造物側から見れば"T"であるが、それよりも、宇宙全体に存在する"T"の総量は、本来ならば拡大再生産されて行く、と見るのである。
ところが、世界宗教では、現世は悪業因縁の世界であり、そこにはいつか弥勒仏が登場し、あるいはメサイアが現れ、まあ何であれ、今のような問題の多い世界はサービスが終了してしまい、新規のフォーマットに上書きされるのである。それはおそらく、"O"の側から見ると、現状の宇宙は、いつまでも T > G であり、ある時点で、それはどうしても T < G が正しく成立するようにパラダイムがシフトしなければならないのであろう。
その世界を出現させるために我々はどうしなければならないかと言うと、自分個人において T < G が成立するのは当然であるが、自分が誰かに何かを与えた場合、相手もまたそれを誰かに投入して、新規な"t"が増殖し、上記の乗数効果を発生させなければならない、ということである。同時に、大量の"T"を自分のために消費して、そこから一向に"g"が発生しないような存在、それを「悪」と定義することが可能だが、そういう連中をシステムから除去するためのウイルス・バスター活動を行うことも必要だろう。
さて、乗数効果が正しく生まれるには、自分のことよりヒトの世話をする、という文化を持った集団があるのでなければならない。この世はそういう世界ではない、と言うのであれば、自分がそういう文化集団を育成し、少なくともその身内同士は、互いに相手の世話をし合って、受けた恩よりも以上に他人の世話をするというのでなければならないだろう。
そういう考察の上で、私は、しょせん限られた能力を親孝行などのために使ったりせず、他人の世話をするために使え、ということを子どもたちには申し送っておきたいので、一言書いておく。もしも自分が耄碌して、オレを介護しろ、とか言い出すようなことがあったら、この一文を私に見せて、それでは乗数効果が出ないから、と言ってくれれば、自分で納得することになる(かも知れない)。

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