虚仮について述べたついでに、その反対語を考えてみる。
我が心は死後の世界にまで永続する、というのが、まだ死んだ経験もない私の意欲的な推論なのであるが、そうであるとすると、我が心とともに永遠に存続するものは何だろうか?
それは「愛」である、という回答は、私の好みではない。なぜなら、そこには折り畳み傘のような響きがあるからである。(それは何故か?ということに関心を持った方は、我が国における折り畳み傘の発明史とそのテレビを利用した広告宣伝史を学習すること。)
むしろ私にとって重要なことは、それが「面白い」ということだ。
「愛」と「面白い」の共通性は、いずれも対象が存在する、ということであろう。もちろん、自己愛というものがあり、またひとり楽しむ、という境地もあるには違いないと思う。しかし、自己愛は、愛の奇形であり、ひとりで粗末な小屋に住み、風流な暮らしをする、というのも、本当のところは風流なのではなくて、薄ら寒い孤独感に襲われて、しまいには泣いてしまうような意地っ張りでしかないだろうと思う。
仕事を愛する、というのも奇形だと思うが、仕事が面白い、というのは、むしろ仕事のあり方として当然だろうと思う。
なぜ仕事が面白いはずかと言うと、仕事は、その定義によって、社会に価値を「与える」行為だからである。その価値を「与える」ことの対価として経済的な報酬もあるのだが、その経済的な報酬を目的に仕事をする連中は、必ず壁にぶち当たって失敗することになっている。本当の報酬は何かと言うと、「与える」ことの反作用として自分の中に生じる力を「受け取る」ことの満足感である。
仕事には、必ず相手がいる。それは顧客であったり、同僚であったり、上司であったり、部下であったり、業者であったりする。彼らと「共同で」何かを実現することが、仕事の本質であり、その結果として、何かを達成した(売れた、運べた、作れた、鑑賞された、などなど)時に、我々は満足感というものを得る。
この満足感を得るまでの過程が「面白い」ことの中身である。そして、この「面白い」ことの特徴は、それが未完だということである。達成してしまったら、それは満足感であって、私の定義では「面白い」領分を逸脱してしまう。
「面白い」状態であるためには、それはまだ達成していてはいけなくて、それでも自分の中には達成を目指すための、つまりは目標というイメージがあり、しかし、現実はと言うと、そのイメージを実現するための障害がいくつもあるのだ。その障害は、物理的な障害、経済的な障害、時間的な障害、感情的な障害、などなど数多くがあるだろう。
しかし、それらの障害については、それを正面から解決する、それを回避する、それを変更してしまう、などなど多くの対処法がある。この対処法を自分自身で編み出す過程こそが、「面白い」ことの中身なのである。
その経験は、自分だけの経験ではなく、そこにはいつもその場その場で異なる仲間がいたことになるのだが、後から振り返ってみることは、我が心ひとつがあれば、何度でも可能なのだ。すなわち、世は移り、時が変わって、もはや昔のことは誰も覚えていないようになっても、なお我が心のうちにそれは生きており、何度でも回想が可能であり、我が仲間も生きて蘇って来るのである。
それはまた、仕事だけには限らないだろう。子どもと一緒に過ごした経験とか、誰かと遊びに行った経験とか、つまりは、経験一般に関して、そこには他者との共同があり、達成に至るまでの過程があるのだ。
そうしたことのすべてが「面白い」ことに含まれる。
仕事がつまらない、というのは、一応、当たり前のことだが、問題はその中に「面白い」時間帯をどれほど持ち込めるか、ということだろうと思う。仕事は、大体が障害を取り除くための単調な労働なのだが、それが誰かとの共同であれば、そこには何らかの創造性が働く余地があって、2時間掛かる作業を、何らかの創造性を働かせて1時間で終了することができ、その結果を他者に喜んでもらえる、というような共同が実現すれば、その1時間が、創造性豊かな「面白い」時間帯となる。
もし、通常2時間掛かる作業を、マニュアル通りに2時間掛けて実現しなければならないとしたら(それは、社会主義という制度の中ではしばしば発生するのだが)、その2時間は苦役としてしか記録されないことになるだろう。
誰かに喜んでもらえるような結果を出すための過程、それが「面白さ」だ、というのが、もう少し洗練された表現なのかも知れない。そして、もし自分の仕事で誰かをがっかりさせたのだったら、それは「面白さ」の対極にある「くだらなさ」だったのであり、それはすなわち虚仮であるから、さっさと切り捨てて、忘れ去った方が良い。
ちなみに、一応、私の分類では、私の記憶ファイルの中に「面白さ」だけが残っており、「くだらなさ」が消去されていれば、それは私の居場所が天国だということであり、逆に記憶ファイルが「くだらなさ」に溢れていて、「面白さ」が消去されている場合、そういう者の居場所は地獄と呼ばれるべきであろう。
そういう訳で、現実には我々の生活というのは、「面白さ」と「くだらなさ」によって構成されているのだとは思うが、「面白さ」それもより多くの人を楽しませたり、役に立ったりするような高級な種類のものをたくさん蓄積する、ということが、我々の娑婆生活の正しいあり方なのではないか、と思う。

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