月曜日の夜にどこに行ったかと言うと、それは羽田空港で、そこから大韓航空機で金浦空港まで飛んだ。
冷え込む日韓関係、みたいなニュースばかりを読んでいると、行き来する人もいないのかと思いきや、昨夜の便は今ではなつかしいジャンボ・ジェットだったが、ほぼ満席だった。
旅客で多いのはやはり若い女性たちで、ほとんど似たような服装の女性たちが、金浦に着くと、国内旅券、外国旅券とバラけて並んだので、彼女たちは、韓国籍と日本籍とのどちらかに分類されると分かるのだが、とても見た目では判別不能だ。
要するに、彼女たちは、原宿や明洞を回遊するノンキな人々で、着る物も好きな食べ物も聴く音楽も、おそらく全然変わらないのだ。
さて、そんな大韓航空機で、飛行機に乗れば必ず映画を見ることにしているのだが、見たのは「ラスト・エンペラー」だ。これは1987年の作品であり、その名を知ってはいたが、実は自分ははじめてそれを見たのだった。ソウル便で困るのは映画が終了する前に飛行機が到着してしまうことで、今回もやはりそうだったが、それでもなお、これは十分に見る価値のある映画だった。
満州国とは何であったか、という問題は、実際に満州国に居住していた人々が我々の身の回りにも多くいて、馴染みがあるはずなのに、それは結構謎に満ちている。この映画は、清朝のラスト・エンペラーにして満州国唯一の皇帝だった愛新覚羅溥儀の人生を辿るものである。
そもそもが英語で会話される映画であって、重要な狂言回しを演じているのが彼の家庭教師である英国人の(と言うかきちんとスコットランド人と説明されている)レジナルド・ジョンストンである。映画では、ピーター・オトゥールが演じている。
映画は、ソ連での抑留から解放されて、中国に送還された宣統帝が政治犯収容所で執拗な尋問を受ける1951年から始まる。そこでの主要な話題は、彼が満州国を建国したのが、彼の意思によるのか、それとも日本軍による強制なのか、という点である。(前)皇帝は、自分は日本軍によって拉致されて無理矢理王位に就かされたのである、というソ連に説明したのと同じことを語るのだが、中国人の所長はその虚偽を厳しく糾弾するのだった。そして、過去を回想しながら進行するその映像によって、我々は満州国の建国が、彼自身の皇帝としての失地回復、という見果てぬ夢の実現だったらしいことを知る。
満州国は日本が彼を傀儡として担ぎ上げただけのもので、その実質は完全に日本軍がコントロールしたのだ、というように我々は思い込んで来たのだが、もちろん、エンペラーにはエンペラーとしての矜持もあり、理屈もあったのだ、ということをこの映画は教えてくれる。
満州建国以降の詳細は、何しろ飛行機が目的地に着いてしまったので、どう描かれているのかはよく分からないのだが、その国家について、満人には満人なりの理解の仕方があった、ということは分かる。映画では、宣統帝がしばしば満人と漢人の違いを語っている。そのあたりの機微をスコットランド人であるジョンストンが良く掴んでいるところが面白いのだが、清という帝国には、支配者側である満人と支配される側に立った漢人の間に大きな軋轢があった、という現実を我々は知らねばならない。
北京に袁世凱、南京に蒋介石、という分断された中華民国の中にあって、エンペラーは天津の日本租界に避難している。そうやって、日本の保護の中で生きた彼は、権力の簒奪者である袁世凱を許すはずもなく、一方ではアメリカの傀儡のような蒋介石をも信じることはできなかった。何しろ、満人が漢人を支配する、というのが、彼の王朝である清朝の基本原理なのであるから、彼の意識は、当然にその原理に回帰せざるを得なかっただろう。
結局、満州事変などによって支配地域を拡大した日本の関東軍は、その支配を確実なものとするために、溥儀を担ぎ出すことにする。この時、満州国が満人による満人のための国家である、という原理が明確だったら、その後の日本の運命も変わっていた可能性があるだろうと思う。
しかし、多くが地方で生まれ、陸軍の学校しか知らずに大きくなった軍人たちに、異民族や異文化をリスペクトする、というような教養がなかった、ということが、事態を深刻なものにする。溥儀自身にも信用されなくなった日本軍部は、彼の権威だけを借りて、その力を徹底的に削ぎ落とすように振舞う。それはどう考えても、侵略者による粗暴で非倫理的な行為である。心ある日本人からも批判されたそうした行動は、当然に国際世論の攻撃するところとなり、その後の欧米による対日外交が厳しくなった原因のひとつがそこにあるだろう。
政府が軍部の行動を抑えきれなくなった、というのは、日本史の教科署によく書かれる表現であるが、その重大なポイントのひとつが、満州国の運営だっただろう。
彼が日本軍によって拉致され、皇帝への即位を強制された、という証言は虚偽なのだが、彼の意識において、それは必ずしも真っ赤な偽りではなかったろう。彼はその地位にあっては当然に行使すべき権限を行使できず、自由を奪われて拘束された日々を過ごしたのである。
日本軍に同情して言えば、彼らは天皇機関説を学んでいたはずであり、皇帝も機関であるから、その行動には当然に制約があると考えただろう。そして、皇帝なら自分の立場をよくわきまえ、庇護者である日本軍に迎合するのが当然だ、と想定していた可能性がある。だが、物心がついてよりずっと皇帝として過ごした溥儀には、まったく別の皇帝観があったはずだ。日本軍が、清朝における宮廷政治のあり方について、もう少しよく勉強していれば、日本の運命は、これほどまでに苛烈ではなかった可能性を否定できない。無知ほど恐ろしいものはないのである。
ともあれ、日本軍は溥儀をうまく活用することができずに、世界にその汚名を広める結果になった。溥儀は昭和天皇とは親密な個人的友情を育てたのだが、日本軍は、昭和天皇に対しても臣下として心から服属してはいなかった。むしろ、秩父宮を担ぎ出そうとするなど不穏な動きをしていたことが、天皇を不快にさせもしていたのである。
東京裁判の戦犯だけが悪かった、という政治的なストーリーには誰も納得しないであろうが、大日本帝国の軍隊が日本政治に及ぼした致命的で破壊的な悪影響については、はっきり指摘しておく必要があると思う。文民統制が必須のテーゼである深刻な理由がそこにある。

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