今の高校一年生の女の子がどんなに恐ろしいかは、実はけっこう良く知っている。
佐世保の女の子が友だちをひとり暮らしの自分の部屋に呼んだのだが、その目的は彼女を殺害して、バラバラにしてみることだった、ということである。
NHKニュースには、地元の教育長らしい人物が出て、「いのちの教育が十分に生かされなかった。もっときちんとやって行きたい。」みたいな発言をしていた。行政が現実から乖離した空論になっているのを感じさせるが、それにしても「いのちの教育」って何かと言うと、どうやらいじめや自殺が日本全国の教育委員会にとって頭痛の種だから、それを解決するために努力している、というポージングの一種として、日本では流行しているらしい。
だが、彼女に欠けていたのは、「いのちの大切さ」についての知識量ではなかっただろう、と自分には思える。いのちが大切なことは、どんな自殺者でも知っていることだ。それすら分からないほど知能が遅れていたら、そんな者はなかなか自殺なんかしない。
自殺も他殺も同じカテゴリーであるのだが、そういうことを行なう者たちへの理解は、すなわち、人間というものについての理解と同じことである。「いのちの教育」なるものが、どんなに道徳的に立派なものかは知らないが、そんな道徳教育で人間を変えられる、と思うのは、あまりにも傲慢不遜であろう。
さて、自分の観点では、彼女に絶対的に欠けていたものは、「死の大切さ」についての認識だったのだと思う。報道されている事実は、彼女が母を失ったのが昨年だった、ということである。そこで、私の疑問は、彼女が母の死ぬ瞬間に立ち会ったのかどうか、である。
Elizabeth Kuebler-Ross博士について何度か言及したが、彼女は職業上、非常に多くの患者の死に立ち会っている。そして、彼女はそのことを素晴らしい体験だったと語る。人は、いよいよ死ぬ、というその時にあたって、それがどんなに非業の死であったとしても、その瞬間には愛と平安に包まれた厳粛な世界に進むのであって、その死に顔を見る時に、人はその人の人生全体を素敵なものであったと感じるのだ、と述べる。
そんな特権は、なぜか今では医師に独占されるものになり、年寄りが家で死ぬ、ということもむしろレア・ケースになった。
もしも自分の子どもがこの記事を読むと前提しての話だが、オレが死ねば、何らかの連絡が行って、病院またはどこかの死に場所に来い、ということになるだろう。その場合、もし食事中でも食事を止め、もしゲームで遊んでいてもクリアーするのを断念し、すぐに死者であるオレの顔を見に来た方が良い。人は、死んでから二、三時間の間だけ、その死の瞬間の平安を表情に残す、と言う。それは見るに値するものだ。自分が最後はどこに行くのか、という認識を得るためにも、親の死に目は重要なイベントである。そして、その死んですぐ、というフレッシュなことが非常に重要で、数時間後、死後硬直がはじまったら、もうその死体は本人とは無関係な物体となり、単なる冷たい有機物に過ぎず、地球における有機物のリサイクルのプロセスの中にもう入り込んでいるのだ。
さて、そういう死の意味を知るためには、我々の「いのち」は、はい、そこまで、というように有限なものではないのであって、無限に続くものだ、ということの完全認識が必要だろう。
それはすなわち、この世とあの世についての認識なのだが、私のざっくりした理解では、この世が厨房であるとすれば、あの世が食堂なのである。そして、どんなに不完全な食事であっても、さすがに食堂に出される直前には、お客様に出せる程度にはメイク・アップされる、というのが、世の道理である。もちろん、厨房でどこまで立派なものになるかは個人差のあることだが、もはやこれで客に出す、と決められたら、もうその時点での最高レベルに飾られて食堂側に行く。それが単なるピクルスであろうと、食堂に出されれば、それも豪華な食事の中の一品であることは間違いないのだから、自らの存在を誇るべきだ、ということになる。
そういう訳で、この世は所詮厨房なのだから、焼かれたり、煮られたり、いろいろ苦労することにはなるのだけれども、それでも食堂に出された途端に拍手喝采を受けられる、と考えれば、どんな苦労も無駄じゃなかった、ということになろう。
「いのちの教育」が所詮、厨房の中でどんな具合に振る舞うべきか、という的外れな話に終始するのだとすれば、それは明らかに時間の無駄だ。我々がいつも目指すべきなのは、「死」とその後である。
縄文以降の人類には、そうした理解も悟りも十分にあったのだ。ところが、近代から現代という野蛮な時代が来ると、平気で戦争をしては人を殺すようになり、それと比例して、人の目から「死」を隠蔽し、あたかもそんなものが存在していないもののように教育することが主流になった。そんな時代にあって、「死」とは何だろう、と思うのは自然なことであり、我々は、誰かの「死」に直面して、その深い意味を理解する必要がある。
その大切な機会を、もし何らかの理由で奪われたりしたら、人は「死」の本当の意味を知りたくて、それを求め続けることになるだろう。
「死とは何か?」その問題を納得の行くまで理解させることが「いのちの教育」なのだったら、それは人間にとって最も重要な教育のひとつだ。だが、学校で死について語ることについては、別の問題がある。それは、それが宗教教育と看做される可能性があることだ。だから、宗教同士が対立している、という大人の事情によって、死について子どもが考える機会が奪われる、という悲しいことが起こる。
そもそも今回は、たまたま自分が友だちを殺す、という問題だったのだが、自分が自分を殺す、という自殺問題は、遥かに数多く発生している。そして、その原因はいじめとか愛情の不足とか、そういう分かりやすい理由のせいにされているのだけれども、一番根が深くて大切なことは、死を決定する権限が神にしかなくて、そこだけは人間が決めてはいけない、という厳粛なルールへの無理解だ。他人を殺すのも自分を殺すのも同じことで、それは権限のない者が勝手にいのちを処分している、という深刻な罪である。
我々は、人生がどんなにくだらない、やるせない、苦しみに満ちたものであっても、心の命じるままに生き続け、求め続けるべき存在だ。そうして、自分が成長し、もうよい、と言われるその時に、「死」を実際に体験することになる。
友だちを絞殺して、解剖してみても、「死」についての知見なんて、何も得られない。身体の破壊が「死」なのではなく、精神がこの世を去ってあの世に行くことが「死」なのだ。そういうことを教えてくれる大人がどこにもいなかったことが、彼女と彼女の友だちにとって、大きな悲劇だったのだと思う。

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