先日は武蔵国分寺に行ったので、本日は、自分個人の中で生きているうちに行っておくべき場所としてリスト・アップされている、和銅銅山跡に行った。好天のハイキングとしても、意味のある遠足である。
西武秩父線で山間をぐんぐん登って行くと、芦ヶ久保から横瀬に出て、あっと驚く。ひどい山の中に忽然と街が出現するからである。そして、この秩父の街からは、荒川でぐっと地形が下がった向こうに山並みが見えるので、まるで天空に浮かんだ都市であるように感じられる。
秩父鉄道に乗り換えて、「和銅黒谷」という駅名の駅で降りる。ここから山に入って行くと、万葉人の歩いた道に感銘を受けたらしい近代の歌人らの歌が標識代わりに木にくくりつけられているのがご愛敬だ。万葉時代の場合、銅の採掘場が歌のネタになるとも思われないので、実際にこの道を通った連中は、下級役人や作業者だったであろうから、あまりロマンチックなものとも思われないのだが。
それで、ここが遺跡です、という観光名所っぽい場所に出ると、石器時代を描いた漫画に出て来そうな巨大な「和同開珎」のモニュメントが飾ってある。そこには、露天掘りの痕というのが二本ほどあって、奥の急斜面を登ってみると、それを上から見下ろせる場所に出る。
これだけでは面白くないので、さらに奥にある観光道路を目指して、山を登り、観光道路のアスファルト面を歩くのだが、途中、秩父の街が一望に見下ろせる場所などもあり、これもまた、悪くはないルートだった。
ここから当時の精錬所跡に降りて行くのが自分の予定したコースなのだが、標識がわざとはずされていて、観光旅行者に分かりにくくしてある。それでもずんずんおりて行くと、これはあまり整備されていない狭い山道ではあるが、別に問題はない。そして、下から上がって来た人には進入禁止を意味する倒木が道を塞いでいる場所が、当時の銅の精錬所跡なのである。現実には、製錬方法をざっくり書いた説明用の看板があるだけで、その跡には入れないように囲いがあって、それがどういう具合のものかは、雑草に埋もれているから判断も出来ない。
まあ何であれ、ここでは銅を取り出して、そのまま都に送った訳ではなく、大仏のパーツなどに加工した上で、輸送をしたことが分かる。
とまあ大変ざっくりした現場検証の結果、どうやらここに露天で掘れる銅があることを発見して、朝廷に通報したのは新羅人の某であり、それを聞いた朝廷がひどく喜んで元号まで和銅にしたところを見ると、律令国家を建国する上では、法制度の確立だけでなく、唐の銭ではない自国貨幣の発行が必須と考えていた朝廷が、銅鉱山を真剣に探していたことが推定される。そして、銅山が発見されるや、資器材を大々的に持ち込んで、銅製品(大仏とか)の鋳造という新規の産業をこの秩父の山奥で起こしたのだ。
そうは言っても、所詮、露天で掘る、というのが当時の採掘技術であるから、この銅山はほどなく枯渇しただろう。そして、朝廷はここを皮切りに日本各地で銅山を発見することになる。
ところが秩父がしぶといところは、この山から出る鉱物資源が銅だけではなかった、ということだ。精錬所跡の説明書によれば、その後、ここは金山として復活したことが分かる。坑道がいくつも発見されているようなのだが、そのうちのいくつかは武田信玄の掘らせたものであり、それ以外に徳川家康が掘らせた坑道も何本かある。
武田が強かったのは、必ずしも騎馬隊だけの話ではなくて、ここに金鉱を持っていたのだから、それが資金源になったのである。そして、江戸に拠点を置いた徳川にとっても、この山奥の地は、特別な意味を持っていたのだ。
秩父神社に行くと、その由来は二千年以上に遡る、というような荒唐無稽なことが堂々と書かれている。第十代崇神天皇の御代に神社が開かれたということになっている次第であるが、伝承がそのまま書かれてしまっては、読む方が赤面する。
本日現場で得られた各種の情報からは、当時、この界隈には、新羅系の居住者がいて、彼等は朝廷の「求む銅山」のキャンペーンを知って、「あるよ〜」と応募し、おそらくは朝廷から格別に遇されたであろうと思う。(あるいは、性格の悪い映画監督だったら、近隣の人々は全員口封じのために惨殺されるようなストーリーにするだろうか。)
その後も、金山として時の権力から寵愛を受け、秩父は今に至るまで山奥ながら立派な街として機能している。そして、江戸時代あたりからは、秩父神社の夜祭りが、祇園祭を模した派手な山車を引き回すものとなり、多くの見物客を呼ぶようになる。
この秩父の夜祭りは、一度見物に行ったことがあるが、山車だけでなく、神社の舞台でひどく古い形式の神楽が演じられたりして、その歴史の古さを感じ取ることが出来る。祭が夜であることは、府中の大国魂神社とも共通だから、古来、祭は夜に行うもの、ということなのかも知れない。
東京の人間として、祇園祭を持つ京都に対しては、その古さに対して一種の劣等感も感じるのだが、藤原京の時代の朝廷と結んで、その伝統を受け継ぎ、今に伝える祭を持つ、ということを考えると、長い歴史を刻んで来たその長さに関して言うと、秩父は京都を超えているとも言える。
そして、私は秩父神社から武甲温泉へと移動し、露天風呂に浸かったのである。露天風呂から上半身を起こせば、春を惜しむそよ風が吹いて来る。それは、千三百年前から毎年繰り返されている通りの現象なのだろう。

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