人間の価値、というものを考えてみた場合、あらゆる人は平等につくられている、という言い方がある。それは、人を「つくった」側からの観点であるから、「つくられた」側の自分としては、これに異論を差し挟む余地はない。
しかし、平等につくられた側の人間が、自分は何に帰属しているのか、ということを考える時に、人はいろいろな瑣末にものに帰属している、と考える傾向があって、人間の価値は、本人が何に帰属していると考えるのかによって異なる、というのも、残念ながら事実であろう。
最悪のケースは、自分は自分自身にしか帰属しない、と考える自己中心がある。家族は大切だ、というのは事実だが、結局、我が親族の繁栄があらゆるものに優先する、といった血脈主義は、同族会社を腐敗させたり、平家を没落させたりもする。
血族関係がなくても、地縁によって、郷土を誇りとする場合も、それ自体は別に悪いものではないが、それ以上の帰属意識が要請される場合、その閉鎖主義は時代が発展するための妨げとなる。わが藩の繁栄しか考えられなかった多くの侍たちは、ご一新の時代に取り残され、西郷隆盛とともにわざわざ負け戦を戦うことしか出来なかった。
スポーツが面倒くさいことになるのも、自分が帰属するチームとか学校とかに、観念上、縛り付けられることがあるからである。この点で、日本古来のスポーツと欧米仕込みのスポーツには相違があって、相撲だと、帰属する部屋とか親方に世話になる以上、たとえ社会正義に反しても部屋を裏切ることは出来ない道理だが、欧米系のスポーツでは、優秀な選手はいくらでもトレードもされるし、引き抜きにも会う。同じ選手が、今年は別のチームに所属したりするから、仲間になったり、敵になったり、ということがある。つまり、欧米系の意識では、個人はチームにではなく、その競技をする団体に帰属する、ということだろう。
ビジネスマンでも同様で、日本サムスンのトップは、元ソニーの幹部、っていうことは、同じ業界で実績ある者を採用したのだから、個人から見れば、同じ業界内で、より自分の能力が発揮されるポジションを選ぶということであり、業界というくくりで見れば、自然な選択だろう。
21世紀で最も厄介な帰属意識は、国家というヤツだろう。何しろ、20世紀というのは、個人の人生というものを考えると、文明が進んで便利になった反面、国家というものに振り回されてひどい目に会う、という体験が多かった時代だ。そして、21世紀は、グローバル化がキーワードだ、とされるが、ならば、これまで国家が担って来た機能をグローバルな次元で誰かが担うのかと言うと、それはまだ発展途上の原始状態に過ぎない。
たとえば、特許というのを国別にいちいち取得するのが面倒だから世界特許を、というのが、普通の発想だけれども、それは、条約に基づいて、その条約を批准した国家がそれぞれの特許庁の責任において処理するものでしかなく、どこかにグローバル特許庁などというところがあって、集中管理をするようにはなっていない。(やっと、欧州特許庁が機能している程度だ。)
現実問題、国家で最も面倒くさいのは、徴税とか入国管理とかの実務的な問題よりも、「国民」という近代国家が持ち込んだ観念だ。そして、自分はXX人である、という観念によって、人が人を区別する、という奇妙な事例が今でも蔓延しているという深刻な宿痾こそ、早く解決しなければならない問題であろうと思う。
その問題から最も自由なのは、外国人同士のカップルから生まれたハーフとか、外国人として生活している人とか、多国籍に仕事をしている法人とかであろう。彼らにとっては、国家は、自らの意思によって選択することが出来るような選択肢であって、必ずしも宿命的なものではない。そういう立場の者たちが増えることによって、「国家」の不便さが強く認識されるようになり、もっと柔軟な権力の分散、世界:国家:地方:親戚:家族:個人のようなバランスの取れた同心円構造が出来るように思う。
現在だと、自分を中心に円を描いた時に、まあ民族というのは、一応の同心円として描けても、その先には、一応モンゴロイドという人類学的な分類を置いたとしても、人類というところまで行ってしまい、そこに国家というものが入り込む余地はないのだ。一体、国家というのは、なぜ存在しているのか、その存在の根拠は非常に怪しいものでしかない。
同様に、宗教による分類というのも、非常に問題の多い観念である。
とにかく、自分がどこに帰属するのか、を考える時に、まず人類、という具合に考えると物事はうまく機能するが、宗教とか国家によって、人を区別するようになると、まずマージナルな人々が気になるし、隣接領域との間で悶着を起こしやすい。その隣接領域との間の近親憎悪が人類史をかくも醜く汚して来たことを反省して、自分の帰属という観念をシャッフルし直すことは健全なことである。
桜宮高校体育科というラベルをはがす、ということには大きな意味があって、人間はラベルによって支配されやすい、愚かな生き物なのだ。そして、そのラベルがなくなってみて、はじめてそんなラベル=観念に誇りとか価値とかを見出していた自分の迷妄から目を覚ますことが出来るのである。
我々は、いまだトーテムによって自分の帰属を確認していた者たちの末裔であり続けている。そこから抜け出すことが、文明化する、ということの本当の意味だと思う。

1