石原慎太郎東京都知事が辞職を表明して、新党結成、ということなのだが、その目的の第一が憲法改正である。
さて、憲法改正というのは、手続きのことを言っているのだが、おそらく石原氏が主張しているのは、GHQ草案をありがたく押し頂いて、それを自国の憲法にしてます、というその姿が情けないから、我々は自分のアタマで一から憲法を書くべきじゃないか、ということだろう。日本の近代教育が日本人の発想力を劣化させたことは間違いないが、まだ江戸時代の教育を受けた優秀な日本人の多かった明治初期、自由民権運動に押された政府が憲法をつくる、と約束した時には、日本国中で、数多くの憲法草案が書かれた。
発見された場所や経緯が劇的だった五日市憲法草案は、多摩の奥深い田舎で、憲法の文面を地元の人々が真剣に考えた記録として貴重である。ところが、近頃は、霞が関の役人が法律案を書く時だって、現行法規をコピー、ペーストして、少々編集するだけみたいになっているし、憲法を第1条からすべて考えよう、という意欲が国中に漲っているかと言うと、そうでもない。まず、現行のGHQ憲法から考える、あるいはそれを守るか守らないか、を議論するのだとしたら、日本人なんかやめた方が良いと思う。
そう嘆く私が抱く新憲法案があるのだが、これをここで公開すると、ほとんどの読者が、おやじバカじゃねえか、と思って、読者離れという現象を起こす可能性が大きいのだが、はじめから読みたい者だけ読めば、という方針の私は、ここであえてそれを公開したい。
まず、基本を考えるために、日本という国家がいかなる契機で7〜8世紀に国家体制をつくったかと言うと、具体的には壬申の乱という内戦の結果なのだが、それが起こったのは、百済の滅亡というような朝鮮半島の動乱が主原因だった。そこで、中華文明圏に属していた朝鮮宮廷の統治形態が輸入されて、中華型の政治権力が出来たのである。以来、日本には「大臣」が存在する。
さて、日米同盟を今後とも堅持すべきだというのは、私自身の確信であるが、弱点は、日本が中華的な統治形態を引き摺っていることだ、と思う。GHQの企図した日本の民主化はいまだ道半ばで、地方は、農協、漁協、特定郵便局など、地元の名士が支配する利権によって固められている。コイズミ改革は、そこを攻撃したが、残念ながら抵抗勢力は強力だった。
そこで、中華的な利権による政治をグレコ・ローマンな民主政治に転換するための私の提案は、日本国を廃止することである。すなわち、ワシントンDCに飛んで、日本国をアメリカ合衆国に編入することを提案する。ハワイに次ぐ51番目の州は、プエルト・リコではなく、日本だ、ということにする。日本のパスポートは、そのまま米国のパスポートに変更され、日本生まれの者はアメリカで生まれた者と自動的に見なされるので、日本で生まれた私にもアメリカ大統領選挙への立候補資格ができる。首相は、自動的に州知事となり、国会は州議会となり、自衛隊は州兵となる。自衛隊を米軍が支配する構図は、現行通りだから、何の支障もない。
メリットは、数多いだろう。ハワイやグアムは国内になるから、投資も自由にできる。企業の市場も一気に広がる。子どもたちの教科書は英語で書かれるから、英語もできるようになるし、なにしろ、アキハバラには、アメリカ人の国内旅行者が溢れるだろう。
そして、皇室にも、当然にアメリカ国民としての市民権が与えられるのだが、そのファミリーには、日本州および州民統合の象徴として、州の財政から皇室費が支出されて、ご公務を果たしていただくことも現行のままだ。ただし、法律の公布、外国大使の接受などの国事行為は廃止し、州が催す行事へのご参加を主要な公務としていただく、そして、宮廷内の宗教行事を含む伝統については、これをお守りいただくものとする。
州を象徴するファミリーが存在することは、合衆国憲法に抵触しないのか、は憲法議論として起こるはずだが、それはユタ州が独自の法規制を持つのと同じことであるから、私としては、それを日米合併のための譲れない一線と考えたい。
この自分の案が採用されれば、大票田である日本には、大統領候補者も必ずやって来て選挙運動をするだろうし、いずれは、日本の州知事をアメリカ大統領にして、アングロ・サクソン系の狭量な政治を刷新し、アメリカをより国際的に信任される、美しい国にすることが可能であろうと思っている。

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