もう今どきの青少年は読まなくなっているのかも知れないが、パール・バックという女流作家が書いた「大地」という大部の小説があって、これは王龍という中国人の人生およびそのファミリーの流転を描く叙事的な物語であり、コサックの群像を描いた「静かなドン」の中国版のようなストーリーだ。(彼女は、本作でノーベル文学賞を得ている。)
そこでは、貧しいことが必ずしも悲惨なばかりでないことも分かるし、金持ちになることが必ずしも幸福をもたらす訳でもない、という人生の知恵を悟ることも出来るのだが、広大な中国の大地のスケールでは、国家による政治など、遥か遠くの出来事に過ぎず、人々の日常生活とはほとんど無縁の童話でしかない、ということを体感させてくれる、という意味で、大陸における国と人との間にある無辺の距離感を知ることが出来る物語でもある。
視聴率を上げたいだけのテレビのニュース・ショーとか、ただ発行部数を増やしたいだけの週刊誌が、扇情的に中国問題を取り上げるのは、彼らのビジネスであるから、自由にやれば良いことだが、そのことで、もし中国人一般に偏見を持つようなことがあったら、それはお互いに不幸なことだろう。社会が、愚者の意見によって汚染されることは、いつの時代でも不幸なことだ。
そもそも国家とは何か、ということを日本人は中国から学んだから、日本もその昔は中国式の国家統治を行っていたのだったが、その後、荘園による地方分権というヨーロッパ型の統治を経て、これもヨーロッパが中央集権国家に変容するのに合わせて、日本も今日まで、中央集権国家であり続けている。
しかしながら、そうした国家統治の形態は、特殊な類型に過ぎないのであって、中国、インド、アラブ、アフリカなどでは、それぞれに独自の国家の伝統があり、国家と人民の関係も、それぞれに異なることを我々は知らねばならない。
まず、国家とは都市である、というのが、中国式の国家観の基礎となる。城壁によって町を囲み、四方に門を置き、その出入りを厳格に統制するのが、中国式統治の基本インフラとなる。そして、町は条里制でその街区を整理し、どこに誰が住むのかを厳密に設計する。そうやって、町の内部は自分の意のままに統治しておいて、そういう町をいくつもつくり、これをネットワークで接続するのが、中国という帝国の作り方なのであって、これはペルシャでも同じであり、その後、アレキサンダー大王やローマ帝国にも受け継がれる、巨大帝国支配の基礎的な方法論となる。日本では、飛鳥地方で何度も都市国家を作ろうとしては失敗し、奈良を経て京都でようやく完成形を見るのだが、それもすぐに崩れてしまって、封建的な農業経済の方が経済の主要単位になり、朝廷のある京都は首都機能に特化してしまう。
さて、そういう中国の国家形態では、都市の住人である、官僚、軍人、交易商人、地主などだけが皇帝に服属する国民なのであって、城外に住む小作人や流浪する人々は、皇帝とは何の関係もない他人でしかない。
そういう、国家とは無縁の人々の役割に注目したのが孫文らの革命家たちで、彼らは、国家の庇護の外側にいた人々も民主主義という統治類型で考えれば、国家の構成要素である、と中国ではじめて主張した。ただ、インテリたちが民主主義を学び、学問的に人民の政治的ロールを主張しても、肝心の人民にその自覚はない。そうした埒外の人々を政治運動に巻き込んだものは、太平天国のような宗教集団であり、そうした運動ではじめて成功したのが、毛沢東の率いる共産党であったと思う。
ところが、共産中国は、すべての人民を解放するかと思いきや、要するに自分たちの政権に盲従する人々だけを選択し、それ以外は粛清することにした。スターリンがソ連で行ったことと同じである。かくして、毛沢東は文化大革命で、皇帝としての毛沢東に仕える中国国家という伝統的な国家体制を再建しようとしたのだけれども、うまく行かず、それ以降は、弱体な指導体制が何代にも渡って続いている。
さて、皇帝が自分の信用できる少数者を集めて権力固めをする、というのと同じことが、国家主席が交替するごとに行われて来た。皇帝の後継者争いが、常に宮廷の中心的関心事で、勝ち馬にいかに乗るかで、一門の栄華と繁栄が決まる、というパターンは今でもまったく変わらない。そうして、人民は常に蚊帳の外、という事態も昔から一向に変わらない。
国民と国家がきちんと切り離されている中国において、国家が、あるいは国家権力を狙う何らかの勢力が何をしようと、それは人民の意志とは無縁である。デモは人民が自発的に行っているのではなく、そこにはプロデューサーがおり、それが現在の国家権力自体のこともあり、反権力側(と言っても、共産党の高級幹部だから、人民とは無縁だが)による工作のこともあるのだろう。
今回の尖閣、反日は、いずれもそうした中国共産党の権力闘争の表現なのだから、一般の中国人民にとっても、日本人民にとっても、大して意味のあることではない。ただ、あの国の政権交替は、ルールなき権力の簒奪合戦であって、民主主義のルールには基かないことは承知しておくべきだ。
習近平氏の身にも最近何かがあったらしいのだが、こういう時、どんなことが起こりやすいかは、日本だとヤクザの幹部の皆さんが、体験的に良くご存じだろうと思う。

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