ついつい読みやすい日本語情報に依存していた私は、今が1433年のラマダン月である、というカレンダーに、まったく気が付かなかった。
もちろん、コラーンの暗唱すらできない私は、イスラム暦に従って生活などしていないので、暦を知らなくてもそんなに困らないのだが、まだ20歳代でサウジアラビアに入り浸っていた頃、自分は普通のアラビア語は読めないが、数字だけは読むことも聞くことも出来たので、現地語で書かれた書類の日付けを見て、今は1399年だから、もうすぐ1400年だなあ、などと漫然と考えていたことを思い出した。当時は、ビル・ゲイツだって、まだMS-DOSさえ開発していなかったのだから、アラブ世界で、コンピュータにおける1400年問題が起きるなんて誰も心配していなかったし、そんな心配は無用だった。サウジの銀行に行けば、縄で縛った札束がゴロゴロ転がっており、銀行員は、ドデカい帳簿に丁寧に数字を書き込んでいた時代である。
なぜ、今がラマダン月であることが衝撃なのかと言うと、IOCがちょうどその時期にロンドン・オリンピックを放り込んで来た、という事実に気付いたからである。ロンドンで取材をしていたある記者が、UAEやインドネシアの選手が、ラマダン月の義務である断食をするか、それとも食べて記録を上げるべきかに悩んでいる、という報道をしていた。その記事によると、UAEのある選手は、アラーは慈悲深い方なので、オリンピックでベストの結果を出すためなら、断食の禁を破ることをお許しになるはずだ、という宗教観を語った。私も同感で、アラーはきっと断食よりも、当該イスラム教徒のオリンピックでの活躍を期待しているはずである。
(ちなみに、私がなぜ彼の宗教観を支持するかと言うと、昔、イエスが安息日に仕事をしている、と非難された時に、こう答えているからだ。「わたしの父は今にいたるまで働いておられる。だから、わたしも働くのである。」(ヨハネ5-17)従って、神の定めた戒律は弾力的に運用すべきだ、という理解をすべきであろう。)
では、イスラム教徒の選手が苦しむような時期に、なぜオリンピックをぶつけたのかと言うと、それは間違いなく、イギリスという国家によるテロ対策である。ロンドンの市中にまでミサイルを配備して、テロへの備えを怠らないイギリスは、オリンピックを開催すれば、それがテロリストの恰好の標的になることを熟知している。しかし、敬虔な(あるいはそうであることを装っている)イスラム原理主義者たちは、ラマダン月の期間中、太陽が出ている間は、食事を取ることが出来ない。緯度の高いロンドンでは、現在、一日のうち17時間は日が出ている、というから、この時期、彼らがロンドンで仕事をしようとすれば、毎日17時間は飲まず食わずで、残りの7時間を食事その他に充てなければならないのだ。
一般にラマダン期間中の普通のアラブ人は、昼の間中、日陰でグダグダ過ごす。と言うか、横になってウトウトして過ごす。そして、夜が近づくと、猛然と起き出して食事の支度をし、日の入りとともに、大騒ぎでおしゃべりしながら毎晩を過ごすのである。そういう期間中に、緊張を強いられるテロ活動を行なうのは、至難のワザであろう。
太陰暦であるイスラム暦では、ラマダン月は、夏になったり冬になったりする。今年のそれは真夏に当たるから、地元にいても大変なのに、高緯度なロンドンになんか、行くことを考えるだけでげんなりしよう。
実は先々週、情報通のET氏が、エルサレム・ポスト紙の記事で、イスラエルのペレス首相、オリンピック開会式への参加をキャンセル、というのを発見して、私に通報してくれた。そして、記事では、開会式が金曜日の夕方で、スタジアムの近くに歩いて行けるホテルがなかったから、とその理由を書いている。ユダヤ人の読者なら、なるほど、と思うところだが、一応、この解説もしておくと、ユダヤの世界では、土曜日が安息日であり、その一日というのは朝からではなく、前日の日が暮れた時点から始まるので、結局、金曜日の夕方は安息日に該当する。そして、安息日に旅行することは、イエスをそれで非難した時から今まで、戒律には何の変化もないので、禁じられている。せいぜい僅かの距離を歩く程度ならOKとされるが、そういう手段が確保されなかったから、というのが、開会式に首相が出席できない理由なのである。このウェブ記事には、いろいろコメントが寄せられていて、このスタジアムから歩いて行けるホテルなんて、いくらでもあるわ、という痛い指摘もされている。
おそらく、イスラエルの首相が、もし本当に、ロンドンの雑踏の中を(それもオリンピック開会式という大騒ぎの中で)ホテルまで歩いて帰ろうとしたら、テロリストに向かって、攻撃をしてくれ、と頼むようなものだろう。そんな愚挙は、はじめからあり得ない話だったのである。
ロンドン・オリンピック、誰がどんなメダルを取るか、という戦いもさることながら、この時期、ロンドンという大舞台で、アラブ地域のテロリストとそれを迎え撃つ旧宗主国、というこちらの戦いの方も、注目です!

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