御手洗瑞子(みたらいたまこ)さんという方がいて、彼女は、ブータンで「首相フェロー」という役職に就いていた方なのであるが、任期を満了し、「ブータン、これでいいのだ」という本を書いた。そこでは、先進的文明諸国とはいささか異なる、ブータン生活が紹介されている。
彼女の目には、実務家としての社会批判ももちろんあるのだが、自分の価値観と相手の価値観とをそれぞれ相対的に理解する、という文化人類学的な視点もきちんと持っている。そして、彼女の同僚であるひとりの女性が、日本のメディアに取材されて答えたことを脇で聞いていて、こういう具合に感想を述べる。
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ブータンの人たちが「幸せかどうか」を問うとき、対象は「自分自身」が幸せかどうかではないのでしょう。自分の大切にする人たちの幸せも含めて自分の幸せと捉える。幸せを感じられる範囲、「幸せゾーン」(と、私は名付けています)が、ブータンの人たちは私たちよりずっと広いのかもしれません。
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さて、先の予定など立てない、遅刻しても平気、叱られても全然気にしない、などなど、驚きのブータン人の生態を観察しつつ、それでもめげないし、楽しそうにしている彼らは、「幸せゾーン」(つまりは、野球でいうストライクゾーンみたいなものだと思うが)が著者(あるいは日本人一般)よりも広い、と彼女は感じたのである。
幸せかどうかは、「自分自身」だけを局所的に切り取って判断するものではなく、家族とか友達とか同僚とか、要するに自分を取り巻く全体が幸せかどうか、がその指標になる、ということだろう。
ブータンは、自国の発展をGDP(国内総生産)みたいな統計数値で把握することは不適切と見て、GNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)でその統計を出していることで知られている。国民にとって重要なことは、生産量ではなく、幸福量だ、という見方は、労働価値説から見ても、資本主義の論理から見ても、容易に認められないと思うが、逆にブータン的な思考をすると、生産って、何のためにあるのか、それが幸福を増幅するか、減衰させるかは分からないのだから、そんな統計は無意味であって、直接に幸福量を測定した方が分かりやすいじゃないか、ということになるのだろう。
もちろん、これは同国における貨幣経済の発展度合いがまだ低い、すなわち、食物にしろ住居にしろ自作の割合が高いから、商業取引高を数量的に把握しても、それで国民の経済を把握することなどできない、という現実的な要請にも基づくだろう。だが、それを幸福量と呼び、経済状況の把握は、流通した貨幣の量ではなく、人々がより幸福になったかどうか、を基準にしなければおかしい、と言明する潔さは、尊敬に値する。若い国王夫妻が震災の被害を受けた我が国にお見舞いに来た時の、すっきりとした態度と、それはリンクするものだ。
実は、この広い幸せゾーン、私の観察では、この頃の若者にもはっきり現れている現象であるように思える。昭和時代に少年期を過ごした我々は、テレビのCMに出て来る星飛雄馬少年のようにがつがつしており、あの通り、笑われるような態度を取っていた。もちろん、我々は星飛雄馬やその父星一徹のように、すこぶるマジメにその理想を追求していたのであり、決して笑いを取ろうとしたり、受けを狙ったりしてはいなかった。だがもはや、今となってはその姿は、痛々しく、むしろ面白おかしいのである。
近頃の若者の場合、ちょっとでもストレスが掛かると、無理〜っと言い、はじめから諦める。そんなことをしていると生活も出来ないぞ、と脅しても、別にへらへらしている。ダメじゃないかと叱っても、何でこのおっさんムキになってるんだろう、と不思議がられる。おそらく、若者たちは、それでも十分幸せなのである。幸せゾーンが広いから、全然気にならないのである。それでいて、震災などがあると、自然にリュックサックを背負って、ボランティアとして出向いて行く。おそらく、何を幸せと感じるかと言うと、それは、オレが花形満や左門豊作を大リーグボールで討ち取った時だ、などという限定的なゾーンにはなくて、自分の周辺が皆良ければそれで良いし、まずいことがあったら、一緒にそれを解決しよう、という極めておおらかな判断基準で生きているように見える。
おそらくそれは、文化の進化なのである。昭和日本的な後進性が、ブータン的な発展段階にまで進化した、というような。自分のことより、周辺のこと、というのは、しかし、本当は日本にも昔はあったことで、ブータン的な幸せゾーンの広さは、縄文時代とか江戸時代といった、昭和時代にはむしろ批判されていたような時代には広く見られていたものである。日本は再びそういう時代に戻って行っているのであり、それは、若者がブータン人化する、という現象として、観察できるのかも知れない。個人は頑張らないが、周辺を含めた幸せは大切だ、という発想は、社会が小さなムラ社会だから有効だ、というのではなく、むしろ大きな大地球社会が到来したから必要なのであるような気がする。

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