今夜はクリスマスイブで、皆さんそれぞれお祝いなどをされたことと思う。
しかし、一体それは、何を何のためにお祝いしたのであろうか。
それはもちろん、主イエス・キリストの生誕をお祝いしたはずなのだと思うが、ではイエスは12月25日生まれなのかと言うと、それは怪しい、と言うより、おそらく違っている。
ロシア正教では、イエスの生誕日を1月7日と定めており、12月25日は、カトリックにおけるクリスマス、という位置付けとなっている。確かなのは、12月25日を祝う、という風習がイエス生誕以前からあったことで、物事の順序から考えて、先に祭の日取りが決まっていたので、イエスの生誕もその日にしてしまえ、ということになったに違いない。私の意見では、カトリックとそこから分かれたプロテスタントでは、大変罰当たりなことを毎年繰り返していることになる。
では本来この日は何故祝われていたかと言うと、この日は、ケルトなどの冬至祭りである、とされる。彼らは、キリスト教というありがたい文明を知る遥か以前から、一年のサイクルをよく知っており、この日は冬至という特別な日なので、それを祝うことは当然なのであった。
そもそもヨーロッパがはじめからキリスト教に染まっていた訳ではない。キリスト教はイエスが出現することによって始まった新興宗教なのであるから、それ以前の宗教とか文明というものが当然あり、ヨーロッパの場合、それはケルト文明と呼ばれる。
そういうケルト文明がどうなってしまったかと言うと、彼らはアメリカ大陸におけるネイティブ・アメリカンや、日本におけるアイヌと同じような状態になった。つまり、別の文明を担っていた人々によって成敗され、独自の文明としては存続することができなくなってしまったのである。
世界中でそういうことが起こった訳だが、いずれも場合も、敗者は文字を持たない口頭による伝承の継承者たちであり、勝者は文字を有する人々だった。勝敗の分かれ目は、戦争における勇気や兵器の差、と言うよりは、むしろコミュニケーション・パワーの圧倒的な差が本質的だった。
なぜ文字の存在が、致命的な差になるのか。文字なき民は、直接会話が可能な範囲、すなわち部族単位でしか生活ができない。しかるに、文字さえあれば、どんなに見ず知らずの相手に対しても文書によって意志を伝えることが可能であり、顔色を窺わなくても、書面による契約書は、確実にその効力を発することができる。かくして、顔を見たこともない人々が書面によって共同意志を持ち、団体行動をすることができるようになるのだ。
文字を媒介とした共同意志を持った集団は、そうでない集団を相手にした場合、圧倒的な差で勝利を得る。それが歴史の教えるところである。
では、かく言う文字を以てブログを執筆したりそれを読んだりすることのできる我々に敵はいないのかと言うと、案外そうでもないと思う。いかに文字によって連帯できると言っても、その文字が共通化されていない。全世界には非常に多数の文字の体系があり、現に一般的な日本人の場合、ひらがな、カタカナ、漢字、alphabetなど、実に多様な文字体系に習熟することを余儀なくされる。その上、近隣諸国ともコミュニケーションを図らねばならないとすれば、ハングルとかキリール文字まで学ばなければならないことになる。
結局、無文字社会の人々が部族同士の抗争に明け暮れていたのと同様、文字社会にいる我々だって、文字が違えば敵も同然、とばかりにいがみ合う結果に陥っている。そういう問題を解決しようとしたポーランドのザメンホフは、エスペラント語という新言語を考案し、世界の人々が同じ言葉を使えば、世界平和に近づくと想定したのであるが、この言語だけで生活することは不可能であるから、これはなかなか広まっていない。
おそらくは、もっと強力な共通言語が生まれて、それはあるいは、スマホの画面をシュッとこするような動作によって情報交換するのかも知れないが、そういう能力を獲得した人々、あるいは世代が、それ以前の者たちを駆逐するようになるのではないか、と思う。
もし、そうなれば、彼らは我々を見て思うだろう。こんなにも多種な文字や言語で互いを差別化し、互いのコミュニケーションができないようにわざわざ障壁を設けるなんて、よほどアタマの悪い連中なのではないか、と。
まことにその通りで、山手線の駅名表示だって、ひらがな、漢字、ハングル、alphabetと4種類の文字を使わなければならないなんて、文明の作り方として、あまりにもレベルが低過ぎる、と反省せざるを得ない。

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