話の流れで、貸金業法改正の問題になる。当時責任者であった亀井静香氏が解説する通り、この問題は多重債務者がどんどん増える、という風潮に対して、行政側が歯止めを掛ける意図で法律改正を行い、要するに、サラ金に対しては金利制限を明確にし、借りる側には限度額を強制したのである。このような規制を導入することで、実際問題、多重債務者の数は減っているのだが、実は彼らがサラ金を使えなくなったため、闇金(やみきん)に流れたり、クレジットカードを使った新手の高利貸しが発生するようになった、と言う。
もともとはサラ金が法定金利を超える金利で契約し、高利を得ているという現実に対し、司法の側から、差額の金利分を金融会社は消費者に返還せよ、という判例が出されて、それじゃあどんなに契約書にしっかり書いても、訴訟を起こされたら負けることになって、業務上支障が出る、という事態になったのが、法改正の発端であったと思う。それで、法律上も金利制限がはっきりしたので、サラ金会社は業績不振になり、また過去の高利契約も金利変更を余儀なくされたから、経営が大変になった。
金利はそれで良いとしても、あわせて多重債務者問題の解決が必要だった。サラ金のシステムが「使いやすい」「便利な」ものになるにつれ、使い勝手の良いサラ金業者のあちこちから借金を重ね、結局は自己破産にいたるケースが頻発した。そこで、借り手の条件を厳しくして、安易に多額の借金ができないようにしたのである。
それはもう、もっともな話であって、サラ金がダメになったから、もっと高利で悪質な業者がはびこるようになったので、改正はしない方が良かった、というのは暴論だろう。論理が逆転している。「TVタックル」では門倉貴史氏が、@ミニマム・インカムの導入Aカネの使い方教育の普及、という提案をしていたが、@はいわゆる社会福祉の全体像から設計すべきことにしても、Aに関しては、早急に実施すべきだと思う。クレジットカードによる若年層の自己破産が一足先に問題化したアメリカでは、高校生なら卒業前に必ずその種のセミナーを受ける。(カリフォルニアでは、中学生が、ドラッグはいかんよ、というセミナーも必ず受けさせられていた。)
そもそも社会で必要な知識は学校で教えよう、という姿勢が日本の教育には欠けているのだが、それは人の生き方は家庭で教えれば良い、という前提があるように思う。それは、能書きとしてはその通りで、本来ならば、親が子どもに愛情を注ぎ、自らの生き方を示せば、子はその後ろ姿を見て、自分も立派な大人になろうとするはずだ。
だが、残念ながら親がバカであるために、その後ろ姿を見て育った子もまたバカに育つ。どうして親がそんなにバカになったのかと言うと、実はさらにその親が・・・ということで、人間がいつからバカになったのかと言うと、創世記に書かれている通り、人間はその最初のカップルからしてバカップルだったのだから、家庭教育はもともと当てにならないのだ。
こうした問題を解決するために、古来偉大な人物たちが現れたのであり、そうした人々の教えを伝えるために寺院や教会ができた。宗教法人は、元来、結婚式や葬式のためのインフラ・ビジネス用に発生したのではない。だが、日本では、徳川時代に整備された氏子・檀家制度により、人々は神社の氏子、寺院の檀家という具合に所属が決定され、宗教組織は、冠婚葬祭業者へと進化することで、世俗化し、人々を教化する役割を果たせなくなって、僧侶は生臭坊主化した。
親も坊主もダメ、ということになって、教師はさらに輪を掛けてダメなのだから、どうして良いか分からない。だから、せめてドラッグはなぜいけないか、借金はどれほど危険か、くらいは学校という場所を利用して、子どもに教えておく必要があるだろう。
貸金業をどう規制するか、あるいは犯罪者をどう処罰するかは、もともとは、返済不能、犯罪の発生、というあってはならない現実が生まれるからいけないのである。そして、それらは、親が子どもを育てる過程で、自立した人間としての自分をモデルにしながら、それをしっかり見せることで、十分に根本的な解決が可能である。
では、親はなぜ子どもの教育を誤るのか。一応、教育哲学を学んだこともある私としては、子どもはもともと自らきちんと育とうとする意欲を持つ、という説を信じている。その理論は、子どもは親の言いなりになるべきだ、という常識に対立する。自分が不完全なくせに子どもを自分の言いなりにさせようとする親の心理は、親と子が独立した人格であることを認めず、子どもを自分自身のエゴが拡張したものと誤認するところから生まれる。
また西郷南洲の「善からぬことは自分を愛するところからはじまる」との言葉をあてはめると、自分を愛するところから、拡張した自分であると誤認した子どもを愛するようになって、その歪んだ愛情を受けた子どもは、どんどん歪んでしまうのだと思う。「敬天愛人」は、ユダヤでもイスラムでも、人類に普遍的な価値観である。
The fear of the Lord is the beginning of knowledge. (Proverb 1:7)
神を畏れない人間は、知識のはじめが欠けているのだから、もうそれ以上、話にならない。

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