このたびの震災に関連して、日本人の冷静さについて称える海外報道が多い、というが、自分も同感で、パニック反応を起こさない日本人の精神の安定ぶりは驚くべきものだ。しかし、全員がそうかと言うと、そうでもない連中もまた存在する。
特に福島原発事故に関しては、これだけ多くの解説がテレビのニュースなどで語られているにもかかわらず、「本当は大変なんだ」「もうダメだ」と真剣に信じる向きもある。結局、そういう反応を示すのは、情報の中から事実だけを選択的に汲み取って、その事実から真実を自分の頭の中で組み立てる、という基礎訓練ができていない人々である。
一般的に、彼らは、他人の振る舞いだけを見て、乗り遅れまいと思って行動する。付和雷同型である。おそらく、事実だけを見て、自分の力で判断をしようとする者は実は少数派で、実際には、他人に付いて行こうとする方が、多数派なのだと思う。自分から見ると、他人と同じ行動をするというのは、あまりにもリスクの高い生き方であって、そんな選択は、とても恐ろしくて出来ない、と思うが、案外そういう大胆な人々が多い。
他人に従う生き方を選択するなら、それも生き方のひとつだと思うが、その場合、誰の情報を信じるか、という選球眼が問題となる。確かな判断力を持った人を日頃からウォッチしておいて、その人物と運命をともにしよう、と考えるなら、それは理解できる。しかし、いろいろな情報が溢れている時に、よりによって「最悪の」シナリオを提示する意見をわざわざ選び出し、そのニュースソースがどれほど確かなのかも調べようとせず、ただ「最悪の」情報を出している、ということだけでそれを信用し、その情報に従って生きようとする者がいる。
福島原発はチェルノブイリ事故と同じだ、と言う情報がある。枝野官房長官の記者会見でも、そんな情報を引き合いに出して、長官に質問した記者がいたのだが、以前にも引用したように、長官が答えた通り、「同じかどうかは、定義による」のであって、厳密でない議論には意味がない。世の中に全く同じ事故というものはないのであり、それぞれの事故がそれぞれに異なる。
こうした事故を通して、我々はより賢くなるべきだと思うが、未来は常に不確定だ。原発を建設する段階で、事故は絶対にない、と主張する者がいれば、それは明らかに誤りであり、逆に自国に原発があれば自分は必ず放射能によって死ぬ、と断言する者がいても、残念ながらその可能性は、あなたが普通に老衰や脳溢血で死ぬ確率よりずっと低いですよ、というのが、正しい意見だろう。
リスクというものは、しょせんは確率のゲームだ。死ぬ確率が少しでもあるのだったら、自分はそれを冒さない、という信条を持った人には、交差点を絶対に渡らないことをお勧めする。ある場合には、死の危険を冒しても良く、別の場合にはダメだ、というのだったら、その境い目はどこにあるのだろう。
いまだ事故対策が進行中の問題については、時間の経過とともに、リスクの増大する要素と、リスクが減少する要素が、それぞれに存在する。どういうリスクが増えており、どういうリスクが減少しているのか、それぞれについてのデータを時系列でウォッチして、自分なりの判定を下しながら、生きる必要がある。
また、そこには、個人別のリスク・ファクターもある。居住者と旅行者とでは、リスク・ファクターが異なる。もし、自分が旅行で日本に滞在しているだけだったら、予定を変更して、日本から別の場所に移動するのは合理的な選択だろう。万一の時、旅行者はより大きなリスクを背負うからである。
災害には会わないのが最善であるにしても、それによって、人間としてのいろいろな能力が要求され、ある意味では自分がテストされる、宗教的に言えば、裁かれている、というのが、今の状況なのかも知れない。

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