皆様、あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。
ということで、新年の話題は、天皇制について。
昨年末には、来日した中国の副主席と天皇が会見をすることになったのを、宮内庁長官が政治的利用であると批判したりして、天皇と内閣の問題が話題として浮上したが、あまり議論が進展しないままに終息してしまったのが残念だった。
この経緯の中で、民主党の小沢幹事長が記者に向かって「天皇の行動は、内閣の助言と承認に基づくことを知らないのか」と吼え、これに即座に反論できるような記者は誰もいなかったようだが、日本国憲法では「内閣の助言と承認」は国事行為についてのみ述べているのであって、外国からの賓客の接待は国事行為には指定されておらず、講学上は「公的行為」という概念なのだから、これをも内閣がすべてコントロールするように言うのは憲法理解として誤っている、との指摘が相次いだ。
確か、小沢幹事長は慶応義塾大学経済学部の出身で、その後日本大学大学院に進学し、そこで法律を学んで司法試験を目指していたのだが、父君の死去に伴い、選挙に出るため、法律の勉強を中断したという経歴を持っている。結局、憲法の勉強も中途半端に終わったので、そういう中途半端な学説を自ら作り出してしまったのだろうか。
だが、これは単に法律の勉強が足りなかったということではなく、日本国憲法が規定する国家機構の中で、天皇の位置付けがどういうものであるかについて、小沢氏がしっかりした「歴史認識」を持っていないことを示すものと思う。
日本国憲法以前には、大日本帝国憲法があり、そこでは、天皇は日本国の元首であり、統帥権を有していた。すなわち、天皇は政治を行うと同時に、戦時には最高司令官の役割を果たしていた。その最高権力者であった天皇の存在を日本国憲法は承認したのだが、ただしその地位は「日本国の象徴」に過ぎない、というのが、憲法の立場である。では、象徴とは何か。それは、存在するけれども、具体的な権力行使はしない、という一種の約束であって、英国王政の「君臨すれども統治せず」という思想に通じる。もちろん統治せずと言うのは、存在せずと言うことではない。人間なのだから自らの意見も意志も持っているし、発言もする。
1945年までは現実に日本国で最高の権力者であった天皇について、その行動はすべて内閣が決めるのだ、というような単線的な話は、まず事実ではないし、憲法でもそこまでは規定していない。君臨を認めるが、統治には関与させない、ということは、天皇と内閣総理大臣との間に微妙が呼吸が必要だ、ということである。そういう大人の折り合いが憲法に書かれていることなのであり、「天皇は内閣の言いなりだ」とも聞こえる発言を行うような人間には、日本の政治家として最低限必要な政治センスが備わっていないと思う。
天皇制害悪論のような共和論者、あるいは民主主義者もいるが、古代ギリシャのヘロドトスの時代から語られている通り、君主制、寡頭制、民主制には、各々メリット、デメリットがあり、どれかが正しい、などということはない。すばらしい君主が統治するのは、多数決でしか物事を決められない民主制よりずっと良いことだと誰もが知っている。問題は君主の発想がすばらしいかどうかが疑わしいことで、それなら多数の者が良いと思ったことだけをやる、という愚鈍な民主制の方がまだマシだろう、というのが、民主主義の存在理由である。
日本が全面的な民主主義、あるいは共和制を採っていないことは、歴史的な事情もあるにせよ、なかなか良いことであると思う。民主主義が必ず正しいなどということはない。君主制と民主制の折り合いをつけた現行憲法の妙味を理解できない者には日本国の国政を任せることは出来ないだろう。
四億円の政治資金をマネー・ロンダリングしたとされる小沢氏には、その政治の師匠である田中角栄元首相と同様、今後は刑事被告人としてその余生を過ごされることを、ぜひお勧めしたい。

7