新聞協会、裁判員に取材協力呼びかけ…判決後に記者会見
今年5月に始まる裁判員制度に向け、日本新聞協会(新聞・通信・放送の141社加盟)は26日、国民に対して、取材・報道への理解や、記者会見への協力を呼びかける「裁判員となるみなさんへ」を公表した。
裁判員が判決後に任意で参加する記者会見の実現に向け、裁判所の協力が得られることになった。
呼びかけは、「裁判員経験者に対する取材・報道は、新たな制度による司法権の行使が適正になされているかを検証するうえでも必要不可欠」と述べたうえで、「守秘義務の立法趣旨と裁判員経験者の意向を踏まえ、国民の知る権利に資する報道機関としての使命を果たしていく」としている。
新聞協会は2007年5月以降、最高裁に対し、裁判員経験者の意向を尊重するという取材・報道姿勢などを説明して、記者会見への協力を要請。
12回にわたる意見交換の結果、最高裁側も「制度の定着という点で、裁判員の声が広く伝わることは重要だ」と理解を示し、本人の了承があることを前提に協力することになった。
(2009年2月26日22時11分 読売新聞)
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さらりと書いてある。新聞協会が最高裁に12回も圧力を掛けた結果、最高裁も協力することになった、と言う。だが、
私には全く理解できない。これでは、裁判は見世物ではないか。
深刻な犯罪を犯した被告人に対して、どのような量刑で臨むかについて自己の意見を述べること。それは、犯罪のありよう、被告人の姿、被害者(あるいは遺族)の感情などを数日間にわたって慎重に見極め、被告人にとっては、どんな量刑であっても、彼自身の意志に反して、人間なら本来誰にでも認められているはずの「自由」を、あるいは「生命」を奪うことを国家の名において決定するプロセスに参画することだ。
それは恐らく、許したい、しかし許すことができない、という苦しみの中で、どうにか自分の意見を持ち、それを伝える作業であろう。裁判員制度では、その決定は裁判官がすることになっているのであって、裁判員には自らの意見を表明することだけが求められている。そしてそれを完了した時点で、裁判員という国家権力行使の構成要素は、その使命を終了し、裁判員たちは、一介の市井人に戻らなければならないはずだ。
守秘義務を負わされるとは、そのことを忘れ去れ、ということだ。そして、誰にも語るな、ということだ。しかるに、女房にも語るべきでないことを新聞記者には語って良い、と言うのか?なぜ?それが許されるなら、自分の意見を聞いた別の裁判員が記者に向かって、私の意見を語るかも知れない。自分と同様、裁判官にも他の裁判員にも守秘義務が課されるからこそ、そこでは個人的な人間としての素直な思いが語られるはずだったのではないか。守秘義務がありながら、記者会見で語る。語ってはならない事柄をうまくかわしながら、政治家のように適当な答えをすべきだと言うのか。そうだったら、そんな会見に何の意味があるのか。
裁判員が記者会見をする可能性があるならば、守秘義務は守られるはずがないから、裁判員制度の前提条件は崩れている。もし、自分個人が会見を断っても、自分の声を聞いた誰かが記者に語る可能性があるのなら、自分は、そもそも裁判員になって、そこで一言でも意見を述べることを拒否せざるを得ない。「断れません」と言うなら、参加はするが、完全に黙秘するだろう。新聞記者にばらされることがわかっていながら、真剣な意見を述べることなど、私にはとてもできない。

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