学校というものを、入学試験に合格するために必要な偏差値の順に並べて、それで学校の格付けをする、というのは、進学塾とか予備校がその職業的な必要から行っていることだが、学校の価値は、もちろんそういうことで決まる訳ではない。
では、「学校の品格」とは、どんな具合に決まるのか、ということであるが、それはもちろん、学校教育の「成果物」である卒業生を見て、判定することになる。それでは、どんな卒業生が優良であり、どんな卒業生が下劣なのだろう。それは、彼個人と社会全般との関係において、自分が社会からメリットを享受する以上に、自分が社会により貢献しようと考える度合いが高い卒業生が多ければ、その学校は良い学校だ、ということになる。
それは、まず基本において、学校創立者の志において見ることができる。創立者自身が、社会に貢献したいと念願し、その手段として学校教育を行いたいと考え、しかもその目標を教育の中で実現できれば、卒業生の志は高いものになる。一般に、私学の場合には、その学校教育の範を英国にとった場合が多い。英国のパブリック・スクールは、中等教育のひとつの理想形として、多くの教育者がその目標にした。
一方、官立の学校は、プロイセンが行ったように、官製の「近代化」を実現するための手段として、国家が国民のために提供したサービスだった。そういう学校教育のあり方を、同時代人として体験したイマニュエル・カントは、その教育制度には批判的だった。その延長線上にあるドイツにおける教育制度の悲劇性を、文学にまでしてしまったのが、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」である。
教養ある日本人の姿を考える時、英国風の教育という流れの中で育った人々と、プロイセン風の教育になじんだ人々という、ふたつの種類の「教養」があるように思える。
このふたつの「教養」の差は何かというと、英国流では社会に対する貢献度を問題にするのに対し、プロイセン流では国家に対する貢献度を問題にする、ということである。文字通り「国家枢要の人材」を求めるのは国家側からの要請であるが、社会の役に立つ人材の場合は、どの社会のどの分野に貢献するかは、個人の方で自由に決めることになる。
国家の場合は、その時代の都合で、教育の中身が変わり、価値ある学問が、ある時には法律であったり、ある時には工学であったりする。工学の中身だって、自分が学生の頃には原子力工学科などというのが最先端だったが、今やそんなものは消滅した。医学も、国家が必要とする医学となれば、単に病人を治すというだけでは済まなくなる。
一方、社会の役に立つ学問ということになると、むしろ判断力や思考力といった基礎力が要請されることになり、より普遍的なものを目指すことになる。とりわけ、「リベラル・アーツ」というものが、大切だということになる。
20世紀は国家が幅を利かせた時代だが、21世紀になって、どちらの卒業生がより社会(国家もその一部として含む)に貢献するのかは、分からない。単なる現象だけを見れば、21世紀の日本では、国立大学を卒業して首相になった者は、ひとりもいない。

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