「ミウラ・カズヨシ」という名前を自分の大脳記憶領域に投げ込むと、まず出て来るのは「疑惑の銃弾」というフレーズで、読売ヴェルディに同じ読み方の選手が出て来た時も、この選手、審判に不満があったらピストルでも取り出すのじゃないか、と思っていた。
その(自分にとっては)元祖である方の三浦和義氏であるが、意外なタイミングでサイパンで逮捕された。彼は、最初は若妻を殺害された被害者としてマスコミに登場し、次には実は保険金を狙った殺人の容疑者とされ、第一審では有罪だったものの、第二審では無罪を勝ち取って、再び被害者の立場に戻った。ただ、最近ではしばしば万引きで捕まり、今度はこちらが係争中だったらしい。
一審で有罪だったものが、なぜ二審でひっくり返ったかと言うと、妻を殺害された時、彼も同じクルマに乗っており、しかも彼自身が脚を撃たれている以上、彼が殺人の首謀者だったとしても、狙撃を実行した共犯者がいるはずで、結局、その共犯者が全く見つからない以上、限りなく怪しくはあるものの、有罪の判決を下すことはできない、という理由からだった。
裁判というのは、一方では冤罪がいくつもあるのに、他方ではどんなに怪しくても証拠が不十分なら有罪にできない、という、大変不完全なものである。しょせん、不完全でもないよりはまし、という理由で存続が許されているだけのものだろう。
その三浦氏がマスコミに登場したのは1980年代のはじめだが、当時の彼は、派手ないでたちの青年社長であり、犯行の場所はロサンジェルスであり、その手段は狙撃であり、被害者は美人の若妻であり、何とも一般庶民があこがれるセレブの犯罪か、ということで、日本社会では、大変な話題になった。
もとより、彼が犯人か、それとも日本で免れた冤罪をもう一度アメリカで着せられようとしているのかは、当ブログの容易に論じられるところではない。しかし、社長という名誉ある地位にあるこの人物、常習的な万引き犯であることは、人々の心証形成に悪影響を与える。「嘘は泥棒のはじまり」と言う。それなら、泥棒は嘘つきである蓋然性が高いことになる。すると、彼の主張も怪しくなろうと言うものである。
嘘をつく、泥棒をする、人を殺す、という一連の行動に共通なのは、それが自分の利益だけを見て、他者の不利益を見る能力がないことによって引き起こされる、ということである。常に他者を意識する。他者とは自分以外の全宇宙のことである。だから、他者意識が常にあるということは、宇宙意識があるということである。宇宙意識の欠如が、嘘つき、泥棒、人殺しを生む、と自分は考えている。

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