豊臣の朝鮮侵略については、侵略された側ではどんな事情があったのであろうか。
李氏朝鮮は、世宗の頃にハングル文字を発明するなど、文化面では独自な発展をするのだが、軍事面では、明との友好関係が頼みで、安全保障は大国である明に依存することがその基本姿勢であった。ただ、時代が下るに従って、国王の功臣という家系を誇るだけの「勲旧派」とか、国王に娘を輿入れさせた「戚臣」などが羽振りをきかせる政治体制に不満を持つ、難関の科挙を突破した優秀な官僚たちが政治に参画しようとする傾向が生まれる。彼等は「士林派」と呼ばれ、しばしば弾圧の対象になるのであるが、次第にその勢力を拡張し、1567年に宣祖が即位すると、いよいよ政権を任されることになった。
ところが、頭が良くてプライドが高いのが、こうした高級官僚たちであり、彼等は一枚岩で国王を支えるどころか、党派を組んで四分五裂することになる。これを「朋党政治」と称する。
秀吉から、「明を攻撃するために協力を要請する」との手紙を受け取ったのは、こうした時期だった。そしてこの手紙もまた、彼等の間で政争の具となる。この危機に対して防衛力を強化せよ、という主張をするグループと、こんなものはこけおどしであるから、無視すればよい、とするグループとに分かれて、政策論争となった。結局、国王を味方につけた後者が論争を制するのであるが、その考えが誤りであることは、現実に現われた無数の秀吉軍によって証明されてしまう。
それでも、こういう危機に備えるためにこそ、明への朝貢関係を維持して来たのである。だから、当然、明に出兵を要請する。
明軍は、やって来た。ところが、官僚たちの思いとは異なり、彼等は日本軍を蹴散らすことができない。両軍は、韓半島のいたるところで激戦を繰り広げ、土地は荒らされ、人々は殺戮の対象となった。
結局、日本軍が引き上げたのは、秀吉が死んで、日本軍が自主的に撤退を決めたからである。それまで7年間の間、韓半島はふみにじられ続けた。
政権を巡って、あらゆる政策決定が論争の具とされる。他国に安全保障を委ねて、自主的な防衛の意欲を持たない。もしそんな国があったら、この事例は、大変良い参考になるだろうと思う。

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