朝鮮半島についての古い記事としては、中国三国時代(3世紀)に同地域が馬韓、弁韓、辰韓、という三つの地域に分かれていたことが知られる。馬韓は百済となり、辰韓は新羅になったのだが、南の沿海部にいた弁韓は任那や加羅と呼ばれるようになり、結局新羅によって滅ぼされた。では、彼等はどこに行ったのか。もともと海で生活していた人々である。済州島、対馬の他、九州にも渡り、玄界灘を生活圏として暮らしただろう。彼等は恐らくは小柄でもあったために「倭」と呼ばれることになったと考えられる。
そして、新羅、百済が国家として自立を高めるとともに、倭の人々も国家もどきを作って対抗するようになる。そこで、太宰府を首都とする倭人の連合王国を樹立するのだが、彼等は、海の民であるという本質から、古代ギリシャと同様に点と線で行動するため、その国家としての態様は都市国家連合であったと推定される。
都市国家には、太宰府のある福岡の他、玄界灘の島々、日本海側の出雲や越(新潟)、瀬戸内海の吉備、摂津などまで含まれた可能性がある。一方、日本列島にはネイティブ・ジャパニーズがいて、森林生活を基本とする縄文以来の文化を築いていたが、それ以外にも黒潮に乗ってやって来た「呉」の末裔である漢人もいた。漢人たちは、農業経済が基本なので、森林の原住民を避け、ようやく飛鳥盆地を自分達のテリトリーとして確保したものと推定される。
また、黒潮ルートは戦乱の中国大陸からの非常口として機能したから、東の新世界に未来を托した様々な民族の人々が日本列島に渡った可能性がある。
かくして、政治的には、百済再興のために新羅と戦って敗れた天智政権に見切りを付けた畿内勢力が、天武を立てて内戦に勝利、太宰府や対馬に防人を派遣して対新羅防衛線を張るとともに、東国の征服にも乗り出して、本格的な国家の樹立を目指したと想定する。
こうして、森林の民、農耕の民、海洋の民が日本国民としての自覚を持ってひとつの国を建国したと考えれば、今日の日本国民に国民としての自覚が生まれ、愛国心を持つにいたったことは大きな政治的な勝利と言えるのではないだろうか。
どちらさまも、良い年をお迎え下さい。

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