聖書によれば、神が宇宙を創造した。その現場を俺は見てないから、そんなこと知らん、という者でも、現に宇宙が存在することは否定しようもない。存在する以上、それが生成した過程が存在したはずだ。カオスから始まった宇宙の創世が、結果的に地球を創り出し、富士山だの太平洋だのモンシロチョウだのキリンだのを創り出し、自分を創り出し、自分の体の中には胃袋だの白血球だの大脳皮質だのあらゆる複雑な系が共存している。こういう複雑なシステムから成り立つ自分というものは、宇宙が始まった頃のカオスという状態と較べれば、ずいぶんとエントロピーが小さいものであることが分かる。エントロピーとは、物事の秩序の有り様で、自然というものは、放っておけば秩序がどんどん失われて行き、エントロピーが増大するものであることが知られている。
秩序と言えば、自分自身の生活にも秩序があり、小さな社会から地球全体に至るまで、この世界には秩序がある。その中で生きる我々のあらゆる生活の断片は、秩序をより高めているか、自然状態で秩序が崩壊して行くことに悪乗りしているか、そのいずれかである、と言える。冷蔵庫にあった様々な食材が晩御飯のおかずに変われば、それはエントロピーを小さくする活動であり、食事の結果、茶碗や皿が汚れ放題になれば、それはエントロピーを増大させたことになる。そして、皿洗いが再びエントロピーを小さくする行動であることは言うまでもない。
善悪の基準というのも、案外単純で、社会のエントロピーを小さくする行動はその社会にとって善であり、エントロピーの増大に貢献することは悪である、と見ることが出来る。正義感を発して悪を退治する、という桃太郎侍のような行為は、結果として、本当に正義が実現できるのでなければ、正義感の衝突によるエントロピーの増大を招きかねない。暴力(戦力)は、抑止力となって、エントロピーの増大を防いでいる間は善であるにしても、実際に発動されて、正義が衝突する段になると、悪なる結果に陥る。火災防止のスプリンクラーが、使われないために存在するのと同じ理屈である。それが実際に使用されるべきなのは、使わない場合、よりエントロピーが増大する(カタストロフィっクな結果となる)ことが明らかな場合に限る。
そういう訳で、軍事力の価値というのも、その社会が直面する世界がカタストロフィっクであり、しかも何がエントロピーを増大させるのかを冷静に思量できる知恵の存在することが前提となる。残念ながら今日の国際社会は、日本国憲法前文で描写されているほどエントロピーの低いものではない。むしろ、アナーキーであることが客観的な分析の前提であること、QMSS氏が4月22日のブログで明らかにされている通りである。
恒久平和は人類の理想だ。だが、その実現にはまだまだ多くのステップが掛かる。その第一歩は何と言っても「わが身を振り返る」ことであろう。

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