通常、人がいつ死ぬのかは予測不能だが、彼の場合は今週の火曜日にその命を終えるように、随分前から計画されていた。しかし、結局、その予定は実行されなかった。理由は、彼の死刑執行において、判決に示されたような人道的な措置を実行できるだけの準備が整わなかったからだ、とされる。死刑を宣告されてから23年間も生き続けて46歳になったこの男マイケル・モラレスは、今日も我々と同じ空気を吸って生き続けている。
彼はなぜ、その様な長い死刑執行を待つ人生を生きるようになったのか。1981年、成績はオールAで、顔は可愛く、心はやさしいし、歌が大好き、という女子高生がいたのである。彼女の両親は離婚していたのだが、元母親が病気と聞いて見舞いに出掛けた。その帰り、同じ高校の先輩である男子高校生から呼び出されたので、指定の場所に出向くと、彼のクルマに乗るように言われた。そのクルマに乗り込むと、後部座席から男が現われ(実は呼び出しをかけた高校生のいとこなのだが)ベルトで彼女の首を絞める。彼女は激しく抵抗して、遂にベルトを引きちぎったのだったが、猛り狂った男は鈍器で彼女の頭部をメッタ打ちにする。人物の特定が困難になるほど頭部を破壊された彼女をレイプしてからその死体を遺棄したことが、彼の罪状である。彼は死刑を宣告され、彼女を呼び出した高校生は、現在終身刑に服している。この嘱託殺人の動機は、彼女の彼氏が男子高校生の「恋人」で、そのひとりの男を取り合ったために起こった事件なのだった。
経緯はどうあれ、ともかくシュワルツェネガー州知事が自信を持って宣言した通り、彼は死刑に値するので、薬物投与による死刑を執行することになったのだが、本人が苦しむと残虐な刑罰にあたるので、最初に意識を失わせる薬物を与えるべきだ、と定められた。彼の弁護士は、意識を失わせる薬を与えても、もし意識が戻ったら苦しむから、それは正しい死刑執行ではなくなるので、意識が戻らないことを確かめるために、きちんと医師が立ち会って、本人が苦しむことがあり得ないことを確認した上でないと致死薬を与えてはならない、と主張し、裁判所もそれを認めたのだが、結局、死刑を執行する側では、そのための医師を揃えることが出来なかったので、死刑執行ができなくなってしまったのだ。
歴史書を読めば、あまりにもバカバカしいことがいとも真剣に行われていた、という事例を数多く見るが、我々が生きる現代にも、アンビリバボーとしか思えない愚にもつかない理屈がまかり通り、そんなことを真顔で議論している人々がいるのだ。
結論は、死刑に人道的な正しい死刑などない。いかなる死刑も残虐であり、それは州知事がターミネーターであっても変わらない。一方、殺人の責任はもちろん法律的には犯人にあるのだが、それを引き起こした遠因は、離婚、ホモ、不純異性交遊の蔓延など、文化全体が責を負うべき問題であり、犯人の男ひとりを合法的に殺しても何の解決の足しにもならない。
真に議論すべきは、殺った男をどう殺すのが正しいかではなく、本当に若者を守ることの出来る社会環境をどうしたら築くことが出来るのか、ということである。そうでなければ、これからも多くの高校生が魔の手に掛かってその人生が破壊されるのを、我々はただ見続けるだけのことである。

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