静かな暗闇の中で、暑くもなく、寒くもなく、圧迫するものもなく、そうした中で横たわり目を閉じる。
自分の確かな輪郭を、位置を、規模を確認することが果たしてできるだろうか。
自分の周りの空気に自分の体がとけていき、もはや固形としての肉体など感じることができないほどになっているはずだ。
確かに、頭の下に首があって、その下に胴体があって、その両側には腕が伸びていて、胴体の少し上の部分に心臓があるはずだ。
暗闇の中で、上空から自分の体を見下ろすようにイメージすることはできるかもしれない。
しかし、それは、単なる記憶をイメージにしているだけのことであり、生まれたばかりの赤ん坊が自分の体をイメージできるはずもない。
少なくとも、胎内では、自分の範囲と母親の範囲を区別するものなどなにもなく、ただただ意識だけが存在しているかのように浮いているだけである。
無重力のような上も下も右も左も存在しない世界で、目を閉じてしまったら、それこそ、自分の範囲を認めることはせいぜい「心臓の鼓動」を感じることぐらいで、それも知らなければ、何の鼓動かはわからないであろう。
最後に、その心臓でさえとまってしまったら、もうまったく自分を感じることなどできなくなる。
ただ、記憶以外の部分で、自分の存在、範囲を確認することができないことは、心臓の鼓動がとまった場合とどれだけの差があるのだろうか。
環境からの刺激がまったくない状態で、果たして人は自分を確認することなどできるだろうか。
生きているのであれば少なくとも「意識」がそこにはあり、鼓動がとまっているのなら、そこには何もないと言うかもしれない。
もし、「意識」が存在するというのであれば、「意識」を確認することができるということであるが、それはどのようなものなのか。
そして、鼓動が止まると「意識」がなくなるというのであれば、「意識」というものは何に形を変えてマイナスされたのか。
そして、その「意識」というのは、具体的にあなたのどの部分に属しているものなのか。
「頭部」というかもしれない。
しかし、それは頭部に脳があることを、情報処理装置としての脳がそこに埋め込まれていることを知っているだけのことである。
自らの脳を取り出して確認したわけではないはずである。
「意識」は「記憶」であり、「反応」であり、「予測」である。
したがって、「意識」はあくまでも環境の刺激に対する対応を決定するものである。
だから、指先にも「意識」があり、「足」にも「意識」がある。
しかし、別々の「意識」ではなく、トータルとしての「意識」である。
環境に刺激がなければ、自分を確認することもできないのはこのためである。
刺激がないと、自分、自分の範囲すら確認できない存在というのは、いかに「意識」というものが、信頼するに足りない存在であるかがわかる。
断固として自己を主張するということも、本質的に環境への反力に過ぎない孫悟空のようなものでしかないのである。
刺激という引き金が引かれないと自己が確認できないということは、純粋に自己という存在が錯覚でしかないともいえるし、環境の刺激を含めて自分であるということもできる。
後者であれば、環境は多くの人々が共有している、重複している部分であるから、自己と他人との区別は単に「反応」の違いだけの、ほとんど同じものなのであるということになる。
前者の「自己の存在という意識は錯覚である」とすれば、錯覚という虚像にたいして、実像というものが存在しているかもしれないということが考えられる。
多くの自己が多くの錯覚である虚像であるとすれば、何が実像なのであろうか。
自己という個が虚像なのであり、自己という個が細胞となって組織する全体が実像なのである。
個が自由にふるまえているのであれば、それは実像かもしれない。
しかし、実際には多くの束縛や呪縛があって、個が自由にふるまえていたためしがない。
全体というのは、何か平均的、社会的といったつかみどころのない恐ろしいもの、したがっていれば安心できる場が得られるといった程度しか考えられておらず、まさしく虚像であると認識されているであろう。
ところが、個の活動、生活を呪縛しているのは、まさにこの全体なのであり、全体が力をもって自己を誇示する実像なのである。
観察することのできる対象が実像であり、観察することのできない対象が自己なのである。
観察しようとしている自分こそが自分なのであり、それ以外の何者でもないことに気付くべきであろう。
自分を観察しようと思う意識には、環境という刺激も、全体からの呪縛もないのであるから、それ事態が自由にふるまえることのできる唯一の自分なのである。
これに気付けば、自分というものをいつも見失わないでいることができる。
しかし、その重いがどこに配置されているのか、どの部分を独占しているのか、どのような規模なのか、どのような状態のものなのかを確認することなどできない。
ただ、ただ、観察しようと思うことだけが、それなのである。
記憶という現象がよくも悪くもすべての生活を支えている。
この現象がなければ、人々は自分の姿さえも、形状さえも理解できない。
母親が生まれた子供を認識できないでいることほど、種の保存が達成できないことはない。
卵をヒナがくちばしで破壊することすらできない状態、息をすることすら記憶していないとすれば、そこには何も残らないし、何も始まってはいなかっただろう。
記憶があるから、生命は継続して保存されているのである。

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