【twitter】11年6月4日
死を恐怖するのは、生きている自分の状態を目前の亡骸と合わせてみるから。
動かない、冷たい、腐る、痛み、苦しみ、、、
しかし、死を体験することはできない、死後の世界は体験できるかもしれないが。
「寺」は葬式、墓といった死を対象とした存在として認識しがちであるが、もとは生死ともに対象とした教えの場所であった。
説教はその名残なのだろう。
宇宙というもの、命といもの、自己というものを「お経」という教科書で示した場所である。
原始宗教というものはすべからく死者に対するものではなく生者に対するものである。

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