【twitter】2011年5月以前
作務:禅寺で、僧が掃除などの労務を行うこと。修行の一つと見なされる。 なぜ、労働が修行なのか。修行ならば読経、写経、座禅に時を費やした方が良いではないか。 思考を無にする、嫌な作業を静寂の中で行う、行為の中に我が身が投入され、それ以外の何者でもない、それが目的。
沸き立つ自己の思いとその思いを否定し、自己を否定する行為のせめぎ合いがまず必要である。
せめぎ合いを和らげていくのか、それぞれを強めていくのか、どの道でもかまわない。
総体的にせめぎ合いのエネルギーが均衡することが目標である。
プラス・マイナス・ゼロの状態になることがビッグバーンの以前から続く空の真理であり、自己がそうなることで、ビッグバーンを再現させる。

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