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人は退屈が解消されるためには、日常的に苦痛と思えることも行う。単純作業であろうが、高度な思考作業であろうが、ターゲットが見つかれば退屈が解消でき、安心する。
苦しみ以上の苦しみであるこの退屈とは、活動している「生」に対する停止、不必要な存在としての「死」ということなのだろう。
いや、不必要という評価さえもまだましであり、存在・非存在が認知されていないことなのだろう。
赤ん坊が母親から声もかけられず、抱かれもしない状況では死んでしまう、ということらしいが、その状況なのかもしれない。
間主観性という関係性の中で自己を成立させ、喜怒哀楽という自己感情さえ浮上していくる「現状」が、あたかも単独、言い換えれば関係性の中では「無」であるがごとくの孤独、それは生きているとも言えず、死すらも望ましい状況であると認識してしまうものが「退屈」である。
それに耐えうるのは、一人であるという関係性、継続する自己、全体の濃度である魂を意識の根に有することができる者のみである。
暇と退屈と深い瞑想が境界を持たない者のみである。

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