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霊性的自己においては、実際にそれを思考と呼ぶべきか問題はあるが、思考の源泉であるという観点に立てば、まさに思考であろう。 この源泉的思考から身体的な体験を積み重ね、潜在意識に埋め込まれた記憶による感情を付加し、身体的思考となっていくが、これは下流の大音響、大河と呼ぶにふさわしい。
雑音の中で存在は存在しうる。
雑音の強度が局部的に低い場が「我」という意識の始まりである。
物質となるとさらに雑音は低減され希薄にならなければ誕生しない。
さらに物質と意識が融合した生物となると、よほど雑音は消失されていなければならない。
人類という存在はまさに雑音という荒れた海の中のきわめて清らかで静寂な水であり、奇跡の存在なのである。

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