オルガスムスを知っている。
それはどういう定義なのか知っている。
しかし、それは認識しているとは限らない。
認識とはオルガスムスを体験した者であることと同意、もしくはそれに近いことを示す。
言葉で真理を語る人々の多くは、気付きとして、神の言葉を聞いたとして、不可思議な能力を有するとして、人々を惑わす。
普通とは違うというだけで、その価値が、その地位が得られたかのように、組織による力を得ようとする。
力がなければ人々を導くことなどできない、と言いたいのだろうか。
それは信じさせるものではなく、感動させるものでなければならない。
「周りを観てごらん。苦に満ちた目があふれている。それに比べ、私を信じている人々の幸せそうな目を。だからあなたも私を信じれば、苦を逃れられるよ。」
苦なければ楽なく、不安なければ安心なく、悲しみなければ喜びはない。
苦がないということは、不安がないということは、悲しみがないということは、それは自己を滅するということ。
自己が消滅してしまえば、全体に融けてしまえば、それらは「無」
自己の迷いから、委ねることで開放されることは、成長の、修行のチャンスを逃すだけ。
耐えるしかないかもしれないが、いつかはそれも超えることができるはず。
超えた時にこそ、本当の喜びが訪れる。
しかし、悲しみは無くならない。

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