親鸞
「何事でも思う通りにできるものなら、わしが極楽往生のために人間千人殺せと言えば、おまえは即座に千人殺そう。しかし一人でも殺しえる業縁がないから殺さないのだ。自分の心が善くて殺さないのではない。またたとえ害しまいと思うても、百人、千人殺すこともあるだろう。」
殺す意志なく殺す。
たとえば息をするように、思わずして息しているかのように、人を殺す、他から見れば殺しているとしても、当の本人が殺している意識がなければ、それは罪ではない。
サムライが真剣勝負をしている。
そこには一体となった両者がおり、逸脱する意識の生じた瞬間に意図的な行為が生じる。
そうではなく、感じないままに感じた一手が勝敗を決める。
近代においてこの景色はあってはならないものであり、単なる殺人として型付けられることだろう。そして恨みを生んでしまう。
無念の行為は罪を犯すことは決してない。
それは「善」であるからではなく、「殺す意志も、当然殺される危機感」もないがゆえに、呼吸しているのと同じだからである。

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