愛の一現れである「利他性」
それは、自己犠牲的イメージが強く、よほどの心優しき人々にしか、それも不完全にしか実現されないと思われている。
しかし、実現できるか否かではなく、より多くの場面で実現するような意識状態を持つことなら可能ではないだろうか。
「利他性」とは「利己性」とイコールである。
違いは「己」の領域の差でしかない。
右手で釘を支える左手を金づちで打ったとしても、右手を恨もうとは思わないし、許すといった範疇でもない。
上等な自分の服を自らの指にはさんでいたタバコを落とし、穴を空けたとしても指を。
一定程度以下であれば、自分の財布から金を盗んだことがわかった我が子を警察に訴えることはしないだろう。
裕福ではなくとも、子のためであるならば、できる限りのことをしたいと親は思うだろう。
ワールドカップで応援するのは母国のチームだろう。
犠牲的なイメージを伴わない利他性とは、自己の領域内で行う利己的活動であり、究極は「宇宙即我」となる。

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