さきほど、座禅を組んでいたら、いつものように呼吸が静かに、そして浅くなり、鼻を空気が流れる感じさえなくなっていた。
呼吸が浅くなったなと意識をそちらに移動すると、酸素不足にでもなったかのように、呼吸がまた少し大きくなるのではあるけれど、それでも、その状態を続けていると、意識をそちらに動かしても、大きな乱れが少なくなる。
修行者達は、意識をそちらに動かすことも、たとえ意識をそちらに動かしても呼吸が乱れるということはないのだろう。
私はヨガとか禅、その他の修行者ではないため、訓練されてはいない。
しかし、こうした状況になって、事実かどうかは確かめたことはないけれど、呼吸を長く止めている修行者、仮死状態にまでになる修行者がいることがなんとなく理解できた。
たぶん、このまま、正式な修行をつんでいけば、呼吸を長くとめておくことも可能になってくるのだろう。
イルカとの関係を深め、日本で禅の瞑想を習い、素潜りで深い海中へといく人の書籍を読んだことがある。
人々が通常呼吸していることを意識してはいない。
無意識に呼吸をしているのである。
これと同じように、呼吸を止めることも無意識で行えるようになることが深海へ潜るためには必要であるというのである。
人々が呼吸を止めておくには意識的にこれを実行しないと不可能である。
時折、気付くと呼吸をしていない瞬間があるが、これは吸う・吐くの折り返しの、一瞬呼吸の流れのない時に気付いたせいであると考えられ、私が気付かないうちに呼吸を止めていたなどといことは考えられない。
陸上動物の骨には、海中にふんだんに含まれている栄養?が蓄積されており、身体中に不足すると、骨がこれを供給するシステムがあるそうである。
酸素も、呼吸で得ることができない状態になったときに、どこか体内で一時的に酸素を供給するシステムがあって、これが働くのだそうである。
身体というのは栄養源タンクを備え、それを必要に応じて使用していくという効率の良いシステムを所有している。
あたりまえと言ってしまえばそうなのであるが、ここに至るまでの試行錯誤という進化がいかに素晴らしいものであったかを改めて感じざるを得ないことではないだろうか。
しかし、この複雑なシステムも完全とは言えない。
なぜなら、いつかは老化し、生命を維持できない状態になってしまうからである。
別に完全ではないから、問題であると言っているのではない。
「変化」があるから「存在」しているのであり、「変化」がなければ、それを観察することなどできないのである。
観察できるもので、「変化」しないものなどあるだろうか。
真理は変化しないから観察できないのである。
行為は変化であるから観察することはできるのであるが、行為を起こす根本の意識というものは、変化しないから、もしくは変化が少ないから観察できないのである。
真空という状態はなぜ「何もない状態」であると言うのだろう。
それは、「変化」が少ないから、「何もない状態」なのである。
「昆虫」の目は「動くもの」しか見えない。
人間の目でも、昆虫の目よりも性能がいいにしても、やはり「変化しないもの」を見ることはできないと考えることもできるだろう。
匂いなどというのは本当にいいかげんなものであることは、十分認識しているはずだ。
自分の家の匂いはわからないけれど、人の家の匂いならばすぐにわかる。
病院独特の匂いも、入院患者には意識できないほどの匂いになっており、見舞いの人には、独特の匂いを感じることができるのである。
「味」だってそうである。
昔はあれがうまかったけれど、今はそうでもない、というものがあるはずだ。
味が変わったのか、食生活が変わったのか、それを正確に認識できる人など少ないはずだ。
「感覚」にしたって、春の温かさと秋の涼しさは同じ気温かもしれない。
このように、人間というのは「変化」してはじめて認識できる感覚を持っているのであり、「変化しないもの」は認識できないのである。
生命の進化に応じて認識できる「変化の程度」が変化していったのである。
すべてが進化したわけではなく、鼻のいい犬は人類ほど目が良くないなどのように、進化する方面が違うこともあるのである。
いずれにしても、「変化」しないものは観察することができないのである。
スピン運動を記録することはできても、粒子として観察できる直前の状態を観察することはでいないのである。
こうした能力というのは進化しいれていないのではなく、進化してしまったのでは生命を維持できないから、ある一定程度で抑制されていると考えた方が良いかもしれない。
生活する上で余計な能力というのは、不必要なのであり、あっても構わないけれど、人類すべての能力とするには、余計に時間がかかってしまい、無駄である。
また、紫外線を見ることができたにしても、紫外線自体が肉体にとっては悪影響を及ぼすものであり、大部分は大気圏の外縁部でカットされているのであるから、見える必要はないのである。
赤外線を見ることができたにしても、それは温かさを感じる能力があるのだから、あえて視覚能力にこれを加える必要はないのである。
無駄という表現には抵抗があるかもしれないけれど、生活をしていく上で、余計な能力は不必要なのである。
「超能力」、「神秘体験」、「霊」などのように、一般的には観察できないような現象を起こす、もしくは観察できる能力がある人々がいる。
これは果たして無駄であり、余計な能力なのであろうか。
私が思うに、これまでの科学の発達というのは、一般的な能力の範囲を超えない部分で発展してきたのではないだろうか。
当然、観察もできないようなものについては、最初から科学の手法が分け入っていくこともない。
しかし、その結果、現代科学は行き詰まりとなり、環境汚染、核廃棄物問題、エネルギ−問題その他多くの解消すべき問題を蓄積してきている。
これを解消するために、唯一残された対象分野が「超能力」、「神秘体験」、「霊」などの分野であり、「フリ−エネルギ−」などと言われている、暗在空間の存在を認め、そこから明在空間へ有効物質などを取り出していくものなのである。
確かに、それでも多くの人々がこの暗在から明在という流れを発見し、これを実際に役立つように検討を進めている。
問題は、単に、偶然に暗在空間としか考え様がない、無から有を生み出す現象を発見し、これを活用しているのでは、今の科学と同じ過ちを繰り返す可能性があるということなのである。
地球のごみを宇宙に放棄していくのと同じことである可能性があるのである。
暗在空間は観察でいないから、「暗在」という名前をつけているだけのことであり、「明暗」などという相対するものではなく、同じ原理に基づく空間なのである。
すなわち、観察できる「変化」ではないというだけのことである。
臨死体験、チベット密教などで伝えられている「眩い光」は肉体の持つ限界である可感覚領域(可視領域、可聴領域など)を超えた精神の能力を直接使用できるようになって見えた光なのである。
「超能力」、「神秘体験」、「霊」などのように、一般的には観察できないような現象を起こす、もしくは観察できる能力がある人々を研究し、その原理を発見し、そして矛盾なくそれを現象面で活用していくことがこれからは必要になっているのである。
観察できるかでいないかは問題ではなく、明確に存在しているのは、「最小粒子」と「その振動・回転」だけなのであり、その変化によってすべてのものが存在しているのである。
観察できる存在は、実在ではなく、映像であるとも言えるが、それはレベルの問題があって、現実に観察できるものはやはり存在していると考えるべきである。
体の内部構造も知らないのに、何も不自由なく生きていること自体がそのたとえになるかもしれない。
実際に存在するのだから、現実が映像のようなものであっても、それをあえて恐怖する必要はないのである。
あえてもう一度示すならば、真理を理解しないで、現象面での効果だけをとらえてこれを活用していくのであれば、再び問題は大きくなり、今までとなんら変わらない繰り返しでしかなくなってしまうということである。
肉親の死というのは、他人が葬式や通夜だけでその死を認識するだけのものではなく、脈々と続いてきた流れが突然消滅し、あたかも流れがまだそこにあるはずの感覚とギャップを生むことに死直後の哀しみと時間経過後の寂しさがある。
しかし、肉体的な死というものが、肉体という呪縛、執着から精神を解き放ち、自由な存在へと開放することであることが認識できれば、肉親の死というものに対する考え方も変化するのではないだろうか。
「生きてはいないけれど、消滅、すなわち無になったわけではない」という、精神維持論が広まれば、喜ぶべきことではないにしろ、肉親の一時的精神崩壊を防止できるのではないだろうか。
私の母はガンで苦しんで死んでいったのではあるが、最後の死に際で私が感じたことは「これで楽になれてご苦労様」ということ以外にはなかった。
あたかも赤ん坊が母親の胎内から狭い産道を通り、産まれてくる時のようなもので、安定した胎内から、あまりにも狭い・苦しい産道へ、産まれると、産声を上げるまで新鮮な酸素が途切れそうな窒息状態、そして産声とともに始まる新しい人生、これを逆にたどっているようなものである。
母親の胎内から産まれ、精神世界という胎内へ戻っていくといった感じなのかもしれない。
産まれるということ、そして死んでいくということは、本人の環境や意識とは無関係にすべての人に起こる普遍の現象である。
産まれてから死ぬまでの間の様々な状況は人の数だけ存在するが、この世界での始まりと終わりには何の差もない。
サインカ−ブのY=0のポイントのようなものであろうか。
この世界で生きている間に何かしら成果を持って、レベルを上げてY=0ポイントへ戻らなければならない。
それがこの世界で産まれた目的であり、修行なのであり、その蓄積されたもののベクトルが「一」へと向かうのである。
この世界よりもはるかに長い精神世界での時間のことを認識することにより、生にのみ執着する愚かな意識を捨て去ることが少しはできるかもしれない。
「死」を恐れる必要はない。そして「死」は「無」になることではなく、むしろ営々と続けられる精神世界のパラダイム変換Y=0ポイントでしかないのである。
無から有は創出されないし、有が無になることもないのである。
エネルギ−保存の法則は何も物理学の世界だけではなく、精神世界にもあてはまることなのであり、慣性の法則についてもしかり、万有引力などの力についてもしかり、なのである。
内側から見てもわからないのなら、外側から見ればいいのである。
押してもだめなら引いてみな。
片手の拍手の音はどんな音
月を見るか、指す指を見るか
犬に仏性があるのではなく、ないものがないから、すでに「ある」という認識はない。
不自由な人間の意識を少しでも変換していかないと、いつまでたっても同じビデオを見ているようなものである。
飽き飽きとした時間を早く終わらせないと、進化の前に浄化が起きる。それも自らの手で。

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