リラックスし、肉体の持つ五感をすべて排除し、静かに横たわっている中で自己というものを探す旅に出た。
どこまで深淵な意識の中に入り込んでいっても、自分という「対象」など見ることはできない。
だからと言って、自己というものは存在しないというわけではなく、確かに意識がある以上、そこには自己というものの存在があるはずである。
しかし、いくら意識を深淵な部分に入り込ませようとも「自己」という存在を見つけることなどできなかった。
ところが、「自己を探している」という行為だけは確かにそこにあるのである。
肉体であれば、寒暖や痛み、苦み、音などを感じることができ、そのこと自体が自己というものの存在を証明する手法となるが、肉体的な感覚器官を排除してしまえば、そこには行為しか残らないのである。
自己の顔や姿など肉体的なものはもとより排除されているのであるが、自己の名前という境界も自己と環境との境界も何もなく、そこにあるのは行為だけである。
「自己を探す」という行為と、その行為しかないことに気付いている行為しかそこにはなく、それでも存在を見ることはできない。
地位や名誉がほしいとか、金がほしいとか、人が憎いとか、苦しいとかそんな意識は感じることもできなかった。
地位や名誉は環境との境界があって、比較して初めて存在するものであり、金についても同じことである。
憎いという感情も非自己との関係であり、苦しいのも肉体や比較から生じる思いである。
「自己を探す」「探している自己」という行為のみが残っている意識というものは、肉体的な感覚を排除している以上「死」の瞬間と同じことであろう。
死となった瞬間も自己を見ることはできなくても、自己という行為だけがあいかわらず存在していることを理解できるはずである。
こうした行為は物質的な存在ではなく、物質が持つ意識であり、波動、すなわち情報である。
自分の愛すべき肉体が、鏡を通してではなく、直接見ることができる死というものは不思議に見えるかもしれない。
自分の肉体は見えているが、見ている自分というものを見ることができない状況は、「自己を探す」「探している自己」と同じようなものである。
見ている自分が見えないということは、自分が無色透明になったということなのか、見ることのできない微少な存在となったことなのか、戸惑うかもしれない。
肉体を失えば、そこには「波動」しか残らないのである。
聞くことができるのは、空気の波動である「音」を感知することである。
見ることができるのは、電磁波である「光」を感知することができるからである。
それも可視光線という一定範囲内の光しか見ることのできない能力は、そのことに慣れてきた自分には、その姿を見ることができないのである。
しかし、肉体から離れた自己というものが、肉体的な慣れから少しずつ開放されると、そこにはこれまで見ることのできなかった「光の世界」を感知することができるようになる。
自己から放射される「光」を見るようになるのではあるが、それは経験したことのないようなまばゆい光であるために、それをとても自己から放射された光だとは思わない。
鈍い光の世界である物質世界から、眩い光の世界である精神世界へ、しかしそれらは同じ光であり、スペクトル状の部分でしかない。
赤外線から紫外線へ、さらに高い光へと目がならされていくうちに、自己から放射されていることに気付いた意識は、自己が神といわれているものの部分であることに気付くだろう。
これに気付かなければ、肉体への執着から再び誕生することとなる。
そこには選択などなく、執着に従い自動的に誕生するだけなのである。
気付いた意識も誕生を迎えることはできる。
しかし、それは選択した結果、誕生するのである。
昨日、「死ぬことが待ち遠しい」という感情を覚えてしまった。
別に生の苦しみから逃れたいというのではない。
死の恐怖から開放されたということだと思う。
私はその感情を否定している自分に気付いた。
私には生きていることを活用した役割がある。
私自身のことについてはもう完成に近い。
しかし、私以外の人はまだまだ完成していない。
本来、そこには自己と非自己という区別などないはずなのであるが、非自己はそのことを知らないし、苦しみ続けている。
私は、自己という感情を捨てるわけにはいかない。
自己という感情を捨ててしまえば、そこには非自己の安定はない。
自己というものが存在しないから、自己の安定という表現は適切ではないけれど、自己だけが安定することはできない。
自己というものを、最終ラインを残しながら、私は残りの生の時の間に安定を広めたいと考えている。
ただ、自己を失うことを、排除していく方法を用いたくはない。
自己を持ち続け、そして「一」であることを広めていきたい。
仏教ともユダヤ・キリスト教とも違う、最も近いのは「禅」かもしれないけれど、それでも違う。
和尚とも違うし、ダルマとも違うし、その他の聖人とも違う。
自己を失わないためには、禅の手法とまったく違う手法を用いなければならない。
それは「戦う」ということである。
自己を失わないためには、最後の最後まで自己と戦わなければならない。
その結果として「戦う」必要がないことに気付くと同時に、最後の最後まで自己というものが存在するのである。
「一」の世界は自己といものが存在しない、個性のない、感情のない世界のようにとらえやすいのではあるが、自己の意志と全体の意志に差がないということなのであり、そこには確かに自己というものが、個性というものが存在しているのである。
これが「一」の世界である。
大きな水槽の中に、水槽の中の水と同じ水を入れた透明な袋を入れたのと同じである。
温度も、水質も、何もかも同じではあるのだけれど、袋のみを意識している人間という存在がある。
袋などあってもなくても同じなのに、袋がなくなってしまえば、自己というものを失ってしまうと恐怖を感じる。
しかし、水槽の中にインクを落としてみればわかることではあるけれど、インクの色は水槽の水にとけてうすくなるだけであり、インクの存在が消滅したわけではない。
インクはインクとしての性質と同じものを水槽の中に残しており、ただ水槽の中の水全体と区分することができなくなっただけのことである。
インクには赤であれ、青であれ、黒であれ、インクとしての性質を常に残しており、ただただ他の水と区分できない「一」の状況になっているだけである。
宇宙の目的は、すべてが水槽の中のインクになることであり、袋を破ることである。
インクが水になるわけではない。
自己という存在はいつまでも残らなければならない。
それが人類が「意識」を持つ理由であり、そうでなければ、生きている感覚も死ぬ感覚も理解されない生命と同じことである。
自己を残しながら全体の同じになっていく存在が目的なのである。
自己との戦い、しかし、その戦いに執着することはしてはならない。
こうした微妙な行為が必要なのである。
自己を捨て去る、自己を明け渡すという表現が、この戦いというものを意識しないで、自己と戦う行為を促すものだとしたら、禅は正しい。
すべてをあからさまにすることが正しいとは限らない。
そのことに気付いているのから、禅のマスタ−のもとにはその他の宗教とは比べものにならないくらい「目覚めた人々」が多いといのかもしれない。
そのことが事実なのであれば、知っているのかもしれない。
知らないのにそういう現象が多いから使用しているのかもしれない。
そのことは極秘であろうし、それを知っていても広めるわけにはいかない。
広まれば、多くの人々が戦いに執着してしまうからである。
戦うことに執着するのではなく、執着することと、執着を否定することが行為として戦うのである。
この差は微妙である。
戦うことに意識したとたんに、2つの関係が3つの関係となり、結果的に戦うことしか残らずに、戦う行為が消滅してしまう。
戦うことと、戦うことを否定することが戦うという行為を生み出す可能性もあるかもしれないけれど、目的もなしに戦うという行為で戦うことは不可能だろう。
だから、禅では「自己を開け放つ」ことを指導するのかもしれない。
「自己を開け放つ」ことは「死」をイメ−ジさせるのであり、「死」に恐怖する意識がこれを否定するために、そこに戦いが生まれる。
この戦いが必要とされているのである。
では、なぜ「自己を開け放つ」なのだろうか。
こういう場面に遭遇する人々は何かしら自己に対して、人間に対して、社会に対して否定したい意識がある。。
それは執着であったり、セックスであったり、死であったり、そうした恐怖を克服したいと考えてりいる人々が一般的であるから、こうした人々を戦わせるためには、この導きが最も適切であるからであろう。
でも、私のようにまったく別の方法でも良いのである。
なかなかそういったチャンスは少ないかもしれないけれど、結果的には何でも良いはずである。
戦いの中で、戦いが均衡状態に達すれば、そこにプラス・マイナス・ゼロの時が訪れて、そして爆発するのである。
爆発というのは、物質世界での爆発ではなく、横波エネルギ−の一般的爆発ではなく、縦波エネルギ−の爆発なのである。
情報同士がぶつかり合って、極度の二重人格となり、それが正面衝突するのである。
そこには横からの、別方向からの力などなく、直線上を同じ規模の力がベクトルだけは反対でぶつかり合うことなのである。
同じ命題に対して肯定する意識と否定する意識とでは、デジタル情報として、まったく同じもしくは無と有の位置が正反対のどちらかであり、合わさるとまったく情報なしの情報の状態となる。
この所痛いであれば、たとえわずかな情報でさえも、受信することができるのである。
これが知恵の情報であり、知識ではない、情報なのである。
いつでも、どこでにでも存在するけれど、微弱もしくは、波長が合わないために受信することのできない情報なのである。
この文章を記録したとたんに、身体が再び異常をきたしている。
昨年と同じような敏感な状態である。
昨年ほど恐怖を伴うものではないにしろ、とにかく恐怖を覚えさすには十分の異常がある。
しかし、この恐怖するに十分な異常は、昨年と同様な異常は、私に新しい変化をもたらす前兆であり、そのことを私は素直に受け入れる準備はできている。
それを表現することはでいないし、自分でも何がどう変化するのかは創造の域を超えない。
自動車を運転しながら、突然「観音経」が頭の中で流れだした。
ここ数ヶ月「般若心経」しか読んでいないのに、突然頭の中に流れ出した。
知恵の教えである「般若心経」と慈悲の「観音経」、これが対になってはじめて仏陀となるのである。
仏陀になる、すなわち、内に、外に広がる仏陀に気付くのである。
しかし、あいかわらず、私は私であり、私以外の者になるわけではなく、私に不可される、もともと存在していた対象に気付くだけのことなのである。
運転をしながら、観音経が頭の中で流れ、そして心臓のあたりが熱くなって、後頭部がひきつるような感覚を覚えている。
40分の瞑想、あまり深い瞑想とはならなかったかもしれないけれど、だいぶ精神的な動揺は落ち着いた。
1年前、私は恐怖におののいていた。
暗闇が恐かったし、幻魔が襲ってきそうな感覚で、神経が敏感になり、眠れない日々が続き、死の恐怖を感じていた。
たぶん今のような感じだったのだろう。
その恐怖の原因を今は知っているし、それは確実に「死」には違いない。
自己の範囲が拡大していくときに、人は自己の崩壊を感じる。
それは変化ではあるけれど、変化し、自分が変わってしまう、すなわち別人になるような予測は、人は端的に「死」をイメ−ジしてしまう。
私はこれを経験し、その原因も知っているので、これを「死」ではなく、「変態」であると考えている。
それも「観音経」の流れる変化である。
私だけでなく、多くの人々に至福を感じさせなければならない。
少なくと、そのための変態であることには間違いないだろう。
どの程度の能力なのか、どういった能力なのか、今の私には創造の域ではあるけれど、きっとそういった能力であろう。
すでに私はその能力を使用しているかもしれないし、気付かないだけのことかもしれない。
いずれにしても、私自身の変化のためではなく、私以外の人々に与える変化であろう。
知恵のレベルでは共通している生命の波動が、自己という袋だけを価値あるものとして評価していることを破戒させる役割を担うための変化である。
それは悪魔といわれるかもしれないし、神といわれるかもしれない。
しかし、いずれでもなく、それは鍵でしかない。
すべてが持っている、秘めている存在そのものに気付かせる鍵を私が持ち出す変化であることには間違いのないことだろう。
「鏡」、自分の本来の姿を見せ、気付かせる役割が私にはある。
人々は再び生まれたと感じるだろうから、私は母親になれる女性の性質を持つだろうし、私はあくまでも鍵でしかないのだから、それは男性としての性質だろう。
男性でも、女性でもない存在、人々の本来の姿を見せる、そして気付かせる「鏡」としての役割が私にはあるし、それが「クジラ」としての私の能力なのである。

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