知らなければならないこと、気付かなければならないことが、瞑想の中で明確になっていた時は過去のこととなってしまった。
瞑想しても、何も「べきこと」が浮んでくることもなく、ただただ空洞の時が存在するだけである。
真理も、使命も、手法も、待つこともすべて今の段階では終了証書を獲得してしまった感じである。
変革のイメ−ジは、次なる段階への出発を意味するものであろうことはなんとなく思っているが、その兆候がまったくこの世界では見えてこない。
周辺では、多くの人々がこれに気付いて、各々の専門での活躍が表舞台に登場してきている。
そうした中で、私の基盤というものが少しずつ確固たるものとなっているのは理解できる。
しかし、時はまだ私に待つことを強要している、正確に示すならば、動くのではなく、ただひたすらに待つことしかイメ−ジできない。
クジラのイメ−ジはそれ自体正確なものではあるけれど、クジラが表舞台に立つ時ではないことを理解している。
不安な社会に、閃光のような兆しが見えており、救いを求める人々が訳もわからずこれを追い求めているのがよく見える。
しかし、求めているだけでは、それに気付くことはできない。
自らの内にその閃光を見出すことが必要なのであり、必ず自らの内に存在するこの閃光を表面の波に気をとられることなく、見つめることをしなければならない。
私は、この状態を何の特権も、修行もなく気付いたわけではあるけれど、それが具体的に人々のためになっているというということはまだない。
ないというのは正確な表現ではなく、あくまでも私自身の性質であると思っている思想そのものが、すでに閃光を原因とする現れである。
全てが運命というレ−ルを進んでいるわけではない。
たしかに、過去の歴史というものはレ−ル上の現象かもしれない。
しかし、何度も示してきたように、これからの時は、新たなビデオのコマであり、運命などない、築き上げる時でしかないのだ。
これからの選択が、宇宙の全てを決定することを知っていなければ慎重な、謙虚な選択は不可能である。
時に偶然などという選択はなく、深い思考の中で選択しなければ、新たな宇宙の歴史を最初から繰り返さなければならないのである。
最少粒子の振動・回転がスカラ−波、テスラ−波となり、知ることの今はできない情報となって蓄積されていることを、現実に示さなければならない。
これは偶然ではなく、確かに過去の歴史情報の蓄積であることを証明しなければならないのである。
そうでなければ、物質世界と同等の機能を持ち、そして物質世界とバランスをとらなければならない精神世界の存在を証明することなどできないからである。
霊も超能力もニュ−エネルギ−(フリ−エネルギ−)も新たな経済流通も生活も全てこの両者のバランスから成立しているという事実に目をやらなければ成立しないのであり、恐れることを忘れることなどできないのである。
精神世界では始まっているのである。
確かにそれは一部ではあるけれど、少なくとも、我々が表面的に感じている精神世界、すなわち感情や心のレベルではなく、さらなる全体性、言い換えれば、時間というものに束縛されない自由な意思の世界では、変革が行われつつある。
鏡の世界であるこの物質世界への影響はじきにやってくる。
忘れてはならないのは、どんなに高次の精神世界であろうが、この物質世界であろうが、より低次の世界であろうが、全ては「一」なのであり、フラクタルな状況であるということを、夢物語、妄想などではなく、事実であるということに気付かなければならないのである。
寓話や例え話でしかなかった世界を、科学という共通言語で、それも平易な言葉で人々に伝えていかなければならない。
私には、この共通言語、かつ平易な言葉を活用した時を説明していくのが役割なのである。
「髪の毛」と「地球」はどちらが大きいのかという夢を、息子の表現を借りれば「思い、大きな思い」というのではあるが、息子も影響を受けているようである。
物質的な大きさというものは、確かに髪の毛よりも地球の大きさの方が大きい、しかし、物質的、言い換えれば空間というものは時間に束縛されているのであるから、時間な束縛を受けない高次な精神世界では、髪の毛も地球も同じ最少粒子の振動・回転という情報からなる一変容形態でしかないのであり、あくまでも物質としての執着が成り立たせている現象であることを基本とすれば、大きさというものを比較することなどできないのである。
大きさで比較することはできずに、その情報量で比較するしかないのではあるが、その情報量そのものも縦波というレスラ−波が同じ蓄積量を持っているということから比較することのできない同一のものである。
質量的にも、あくまでも物質への執着ということであるため、比較することなどできない。
執着している度合という観点では、成長している髪の毛の方が大きいのかもしれない。
地球の変化・成長は人の目からはそれほど大きなものではなく、1ケ月に1cm程度は伸びる髪の毛の方が実に明確に執着の度合を成長させているのである。
でたらめなことを示しているのではない。
比較することでしか理解できない、人々の知識を否定するような事実が真理なのであり。パラダイム変換とは意識の変革を示すものなのである。
どんな悲惨な未来を描こうが、どんなに素晴らしい未来を描こうが、自己の自由であると考えるかもしれない。
しかし、社会性という現象自体が平均像である常識を基盤にした生き物、精神世界であること、全てがフラクタルな構造を示していることに気付けば、個人の自由など、統一の情報を持つようにシステム化された最少粒子の振動・回転という理論の中では全く不可能なことなのである。
哲学なのか、神秘学なのか、精神異常なのか、それとも新科学なのか、人それぞれの印象はあるかもしれないけれど、壁に突き当たってしまった社会をより安定した方向に転換させるためには、まったくこれまでの経験にはあてはまらない方向にひとまず進むしかないのである。
行き詰まり、そして不安な世界はどこかが間違っているのであり、それ以上深部に進むことのできない絶滅すべき進化方向であることに気付かなければならない。
世界の方向がひとまず絶滅の方向に進んだとしても、そこには新たな生命の、言い換えれば新たな精神構造の時が誕生するだけであり、それ自体を不必要に不安に感じることはないのである。
あなたはあなたなのであり、あなたが私になるわけでも、全く違う誰かになるのでもないのである。
あなたの中で新たな精神が付加されることにより、新たな性質が誕生するだけなのである。
まるで、違う金属を合成することによりまったくこれまでと違った性質を持つ金属が誕生するのと似ている。
混ざることによる効果は絶大である。
純粋に新しい世界しか知らない精神はやはりどこかに欠陥、弱さを所有しているのであり、不安な世界と新しい精神世界が融合することにより、それまでの経験を土台にして全く安定したs場らしい世界が誕生するのである。
何度同じような記録を示したことだろう。
どんなに思考が深まろうが、結果的に同じ方向しか見出せない、しかも、これまでの経験とは全く違う精神構造の実現を目指しているという現実は、それも、全く専門外の領域に来てしっているという事実は、所有している何か、備わっていた情報に気付いたというほかになく、教えられたというのではない事実は、それが真理としか考えようがないことを示しているようにおもえる。
少なくとも、全く顔も合わしたことがなく、お互いに情報を交流したこともないような人々と同じ気付きを持っているということが全くおもしろい。
マニュアルに従った教え方をしている教育といった限定された空間と時間の中で、多数決によって導きだすように誘導しているのとは違う。
現状を革命という名で被害を出しながら変革してきた歴史の流れとは全く違う事件を現象をこれから迎えていかなければならない。
パソコンを食わず嫌いで触れることもないといったものとは違う。
全ての人々が素直に感じることがなければならないという、また、感じる装置は全ての人々が遺伝子という構造の中組み込まれてしまっている事実であることを認識し、疑ってはならないのである。
疑うということは、これまでも経験を前提に思考している、もしくは経験からしか成立していなかった性格というものが崩壊することを防衛するような行為なのである。
そんなことで、あなた自身の性格を崩壊させることなどできない。
むしろ、あなた自身の周り垢のように蓄積しているものを破壊し、あなた自身を自由にさせるものでしかないのである。
純粋なあなた自身の深い潜在意識の中でわずかな閃光を発しているものを表舞台にまで届く光、まばゆいばかりに清浄な光として感じていくような状態にすることである。
何かが意識の中で爆発し、死を迎え、誕生するイメ−ジを持たなければならないことは事実かもしれないが、それは死ではなく、変化であり、付加なのである。
私のこの経験を通して、新たな精神構造を持ったのである。

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