視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。博之不得、名曰微。此三者不可致詰。故混而為一。其上不げき、其下不味。縄々不可名、復帰於無物。是謂惣恍。迎之不見其首、随之不見其後。執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
形を現す可能性という場、音を発する可能性という時、触れる可能性という行為。
全てが「道」に現れるのであり、現れによって「道」があるわけではない。しかし、純粋意識で現れを見れば「道」を想像することはできる。
立体を平面画像で把握するためには、最低3面を見る必要がある。
上から見れば円、正面から見れば三角、そこで判断してしまっては、三角錐なのか、チュ−ブのような形なのか、それともとんでもない歪んだ形のものかわからない。
横から見ても三角ならば三角錐だろうことが認識できるのである。
三角錐という真理を見るためには、上からは円、正面から三角、横から三角という真実を積み上げていかなければならなのである。
そして、真理とは、立体を平面で捉えるしかないような次元のものであり、人間には一苦労であろう。
しかし、悟りを得た人々、聖人は、見たそのままの現象を知識で解釈するのではなく、永遠に続いてきた宇宙の情報の蓄積である智慧によって見るために、間違いが少なくなるのである。
智慧は誰でもが内にあるのであり、そして外にもあまねくあるのである。
ただ気付くか気付かないかの差でしかない。
その情報はどこに蓄積されているかと言えば、最少粒子の振動というデジタルデ−タで蓄積されているのである。

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