平和になるように神々が導いている、と言う。
神々も人の意識に知覚なると、聖人としてわが子を救うような意識となるのだろう。
しかし、なぜ「平和」にならなければならないのか。
なぜ、「平和」が是として決められているのか。
現実世界では「平和」が良いに決まっている。争いを好む者など限られた者だけだ。
創造神はその胎内で変化・進化する存在を見ているだけで、可能性は与えているが、選択に手を出すことはない。
苦に満ちた世界をなぜ創造しなければならなかったのか。
苦しむ姿を見たいということなのか。そうではないだろう。
神々の世界、精神の世界では、基本的には思ったことが現実となる世界だ。
それでは「進化」を満たすことができないために、肉体という物質と融合させることで、不自由さ、苦が加えられた。
実現するための様々な思考、失敗の経験など進化の種を植えたのである。
これはもはや創造神の策略ではなく、創造神の目的を達成させるための創造神の胎内の神々のどこかのレベルである。
進化するための刺激として「苦」は肉体として与えられた。
精神世界では「個」の領域があいまいであり、融合している。
粒子という感覚ではなく、濃度に近い。
現実世界は粒子という感覚が強く、自己と他が明瞭に分けられているように感じる。
個対多の関係の中で様々な苦が生まれ、経験し、進化していく。
「平和」は人の願いであり、これに神々が協力し、支えようとしているのである。

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