「空」が液晶画面のようなものであることは何度も描いた。
液晶画面の発光体は全く同じ位置いあって、たんなる信号に沿った色を発色しているだけである。
この発色を制御することにより、液晶画面全体では人物が笑い、泣き、歩き、話し出すのである。
発光体の詰まった液晶画面、これは最小粒子の詰まった空の説明にピッタリである。
しかし、これを本当に認識するためには、構造を理解するのではなく、その奥に置かれた真実を、自己を破壊させるイメージを経なければならない。
自分は確固たる肉体を有した何者なのではなく、単なる意志を有した映像でしかない、といった全否定の、特に自己否定の地点を通過しなけければならない。
これを通過し、最も小さな単位の自己が、結果的に全体に対する部分なのではなく、イコールなのであることを「知る」ことで初めて宗教的な意識が芽生える。
個の領域が全体にまで広がれば、そこは他の眼からみて絶対的な利他主義に見えるだろう。
しかし当の本人にとってはいたって普通の利己主義なのであり、そしてそれが利他主義になることを「知っている」ので、何も戸惑うことも、悩むことも、苦しむこともなく、ましてや選択することもなく、全てがうまくいく。
何か訳もなく自然ではない、美しくないと感じたものは、結果的にその原因を知ることになるかもしれないが、多くの間違った選択をしているのである。
このような、潜在意識の奥底では思考しているのかもしれないが、顕在意識では無分別でいることができる、全く楽な状態をそれを知ることにより得られるのである。
「空」とはいたって物理学的な対象であるが、それを「観る、知る、感じることにより、多くの宗教的な示唆を読み解くことができるのである。

0