非核三原則(作らず、持たず、持ち込まず)が守られてきたのかどうかという事実性はともかく、四原則(+議論もせず)、五原則(+考えもせず)という言葉が議員の口から出たのをニュースで聞いて久しいですが、とてもデリケートな問題です。
世界は抑止力で微妙に振動させながらも平衡を維持してきたということができます。
米ソの時代から米テロの現代に至るまで、何かしら抑止力が働いてきたことは間違いのない事実です。
i-podに周辺の雑音を消すノイズキャンセラーがついているのと似ているかもしれません。ようするに、雑音の波形と逆の波形を雑音にぶつけてやれば雑音は耳元で消えるわけです。
報道番組によれば、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元首相も中国が核実験を行ったときに日本にも核を持ち込むべきではないかとアメリカ側に言ったそうです。
理想的には仮想敵国も核を有していなければ、結果として平衡が保たれるわけですが、不幸にも仮想敵国が核を有してしまったとなれば、抑止力を核を持つことでしか達成しえないような気がします。
しかし、現実的に考えてみましょう。
たとえば、北朝鮮が日本に向けて核ミサイルを発射し、不幸にも日本で核爆発が現実のものとなったとします。
日本が核ミサイルを有していた場合、日本は果たして北朝鮮に向けて核ミサイルを発射することができるでしょうか。
また、安全保障条約を締結しているアメリカが日本の代わりに北朝鮮に向けて核ミサイルを発射することができるでしょうか。
さらには、国連が北朝鮮への核ミサイル発射を支持するでしょうか。
日本に確かに民間人を巻き込む核ミサイルが打ち込まれ、考えられないほどの被災者を生み出したとしても、日本であれ、アメリカであれ、北朝鮮に向けて同じことをすれば、北朝鮮にあっても関係のない民間人を大虐殺したことに、日本もアメリカもなってしまいます。
たしかに、世界は日本もしくはアメリカが核は核で報復したことに対し、言葉を発することは是・非いずれの場合も極めてデリケートでしょうが、本音のところは「同じ手段では報復しないでもらいたい」とするのが基本ではないでしょうか。
9.11事件の報復をすればいいのであれば、民間人の存在を無視してアメリカは銃撃戦を徹底的に行えばよかったわけですが、アメリカ国内の世論でもそれは許されなかったでしょう。
以前であれば別の解釈もできたかもしれませんが、現代においては、核による抑止力は勘違いの産物で、保有していようがいまいが、実際には使用できない、かえって使えない悔し涙の産物となってしまうでしょう。(脅しの素材には確かになるのでしょうが、使用してしまってはその価値も低下します。)
結果的にいえば、核を持てる技術と地位と富を有していながらもあえて持たないことが、有事下には伝説化され、地位を持つようになるのです。

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