「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」である。
プラスとマイナスの絶対値がいかに大きくとも、微細であろうとも、ゼロになれば、涼やかな風とともに、悟りは訪れる。
修行は微細な方向へと向わせる。
大きなエネルギーでは調整が難しい。恣意的には現実的に無理なのだろう。
我と彼の領域を消滅させること、全てが我であり、全てが彼である状態になること、身体の呪縛から抜き出ていること、体験の世界から飛び出していること、こんな状態がトずれるととてつもないイメージとともにエネルギーが流れ込んできて、それは尋常な精神状態では耐えられないのではないかと思えるほどである。
およそ、修行の結果得られる静寂な意識のゼロ状態も同じことなのだろう。
いずれにせよ、しいも間違いもなく、念も不念もない状態へ行くことが「正念」であろう。

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