神は神の存在理由を求めた。
その人格の種のような小さな問いを発した。
その問いに答える者を創造するにいたったわけである。
「存在理由」とは「存在目的」ではなく、「存在根源」である。
神は、我々が我々の「中」において夢を見るように、存在を創造した。
しかし、それは設計図を描いたわけではなく、進化するシステムだけを、トリガーを創造したにすぎない。
いったん弾かれたトリガーは自らの足で進化していく。
神の「中」において、神の「創造物」であり、神そのものである存在が、神は我々と独立して、超越する、万能の存在であると考える「個」としての認識を有しているのは、神の問いに答えるための資質を備える能力である。
雑音の中の澄んだ音楽のような「存在の核」を維持することのできる能力を得、物質を統合し、生きている「人」が進化の末にあるのである。
この「神」とは「創造神」であり、「シバ神」である。
進化の末に答えを得る存在にいたらなかった時には、その宇宙を閉じる。
宇宙を閉じるとは、存在自らが選択し消滅していくことを意味する。
神の意志はまず善と悪を生み出すことになる。
善と悪は言い換えれば、愛と自由である。
「愛」は「存在を支えようとする意志」であり、
「自由」は「存在し続けようとする意志」である。
「悪」は「我のみの楽」の究極のものである。
しかし、その「悪」が存在しているということは、「悪」でさえ「支えられている」のである。
「愛」も当然「支えられている」ゆえに存在しているのであり、これを素直に喜び、感謝することが、再び「愛」となる。
創造神は「答え」を得たのか。
神は夢のような「中」ばかりを見てきたが、「外」を見て、その「答え」を得た。
わずかな「人格」さえもない、絶対的で完全なる存在の内側が自己自身、創造神だったのである。
誰が創造神に「外」を見るように伝えたのか。
全ての意識の集合体であり、我々一人ひとりなのである。
そしてその集合的意識は「次なる神」となっていくのである。

0