心に一(いち)(道(タオ))をしっかりと抱いていて,人(聖人)は「道(タオ)」から離れないでいることができるだろうか。
精気(生きる力)を柔軟に保っていて,人は生まれたての赤ん坊のようにしていられるだろうか。
不思議な心の鏡を曇りなく磨いて,人は完璧さへと努めることができるだろうか。
民を愛し,王国を治めるのに,人は平穏に統治し続けられるだろうか。
天の門を開け閉めするときに,人は“女性的なるもの”のままにいられるだろうか。
あらゆる知識を身につけてなお,人は心を無に保つことができるだろうか。
人は分別する能力の芽生えの状態の赤ん坊で産まれる。これを無分別であるという。
人は成長とともに、様々な出来事を体験し、個性を育み、生き続けていくための知識を有してく。これを分別であるという。
一般は、このまま損得、黒白、肯否、深浅、好嫌、楽苦といったことを予想し、過去の体験を甦らせ、その都度選択していく。
選択することは、次なる選択の機会を産み、更なる選択の世界へと導いていく。
この状態で「無分別であれ」と言われ、これに従う者などいない。
それは、それまでの人生を全て否定するものであるとともに、損へと、黒へと、否定へと、嫌悪へと、苦へと堕ちていくことのほか何者でもないといった感じだろう。
富を得ている人に、財を捨て、貧しくなれと言われているようなものだ。
しかし、一度覚醒すれば、全て、少なくともこれまでと比較にならないほど、自己の領域が広がる。
釘を押さえている左手を金槌を持つ右手で打ったところで左手が右手に怒り心頭ということはない。両手とも自分の手であるからだ。

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