一般的に言語を司る脳の部分は左脳であるが、同位置の右脳は機能はありながらも、休止している状態であるという。
成長段階で左脳の該当部分が損傷した場合には、右脳がこれをカバーする「控え投手」であるのかもしれない。
しかし、右脳は六境という外部から六根というデバイスを通して入力し、六識で認識するという現実世界の翻訳装置であり、左脳は精神世界の翻訳装置ではないかと考えている。
紀元前3000年以前の人類は意識というものがなく、全て右脳が受信した神の声にしたがっていたという説がある。
人口の増加、時間距離の短縮、情報伝達媒体の選択肢の増加など現実世界で認識すべき情報が過大となり、言い換えれば大音量の雑音的環境となってきたのに対し、精神世界での情報は極めて希薄な情報であるために、翻訳できない状況に至ったという説とも受け取れる。
ある人が人生の生きる意味を失い、冬の海の中へと入っていった時、突然「生きよ」という声が実際に聞こえたという。私が夜中にはっきりと外部から聞こえた金属の倒れる大きな音は隣りで眠る妻にはまったく聞こえなかったし、断続的に聞こえたテレビのホワイトノイズのような音も外部から聞こえたのではあるが、私以外には誰も聞いていない。
こうした六根を通しているかのように聞こえた声や音は実は現実的なものではなく、六根を通さずに直接脳を刺激したものである。
自殺しつつあった人も、半眠りの私も左脳の言語脳の情報密度は極めて低かったはずであり、右脳の言語能は精神世界からの声を聞き取ることができる環境であったといえないだろうか。
これが是であると仮定すると、意識は脳で翻訳された後のものであり、脳死状態とは単に行為として翻訳されないだけで、実は身体に宿る翻訳前の情報、言い換えれば「個人の意識」が残されている状況を意味するのではないだろうか。
心臓移植された人が元の心臓の持ち主の記憶や好みを受け継いでしまう話は、この意味なのであろう。
これは、単純に、脳死とは身体CPUは稼動しているのであるが、脳出力装置だけが故障している状況と言うことができる。

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