全てが進化するベクトルにあること、個としての認識はなくとも魂は不死であること、したがって、「死」は肉体および肉体に宿る個としての意識のみに訪れるものであることを前提とする。
肉体の死や性別があるのは、肉体的な進化を促すために必要なシステムであり、単性の場合や死がなければ、種として肉体の進化速度は極めて遅いものとなる。
両性であるからこそ、様々な組み合わせの中で、多様な生が誕生し、死があるからこそ、魂が宿る新たな肉体を有することが可能となる。
個としての精神の死(記憶の断絶)があるのは、肉体が新たなものへ乗り換えたとしても、意識が連続するならば、新たな生で新たな選択をすることができない。
新たな選択をするからこそ、結果が変化し、無数ともいえる選択の人生の中で、新たな体験を得ることもできるのである。
したがって、「死」は経験をリセットし(正確には次の生の瞬間にリセットされる)、新たな選択をもたらすためのものであり、「生」は新たに選択する可能性を拡大させるためのものである。
生老病死苦と仏陀は言う。
「苦」であるからこそ、その中で「存在し続けようとする意志」という「自由」が、これを実現するために、苦から楽への模索をするのである。
魂が不死であり、個としての意識が肉体の死を迎えて、新たな生となっても継続するのであれば、来世に期待し沈黙を保つかもしれないし、暴挙に走るかもしれない。
肉体の死が意識の断絶であるとすれば、現世利益を追求し、これもまた暴挙に走るかもしれない。
「業」はいかなる時の「生」の選択であっても、それを荷としてかついで生をすごすことを意味する。
この荷を軽くするためには、この「生」で反省し、つぐない、新たなベターな選択をする必要がある。
「生」は、より清浄なものへと変わっていく修行の時であり、「死」は「生」によって変化した意識の反省と次なる生への目標を定める時なのである。

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