【twitter】11年6月3日
「思い」を感じている「自分」を思ったことはあるだろうか。
「観ている」「自分」を観たことがことがあるか。
観ていないのに「観ている」「自分」を認識することはできない。
とすれば、「自分」と「観ている自分」とは別存在である。
だからこそ本当の「自分」は多くの束縛から自由なのである。
「思う」ことを名詞化した言葉が「私」であり、「私」しか「思う」ことを行う存在はない。
これは「思っている状態」ことを「思う」主体という思考で簡単に了解することができる。
しかし、これでは「時間」、すなわち、正確に言えば「思っていた」ことを「思う」ということである。
純粋に「思う」ことを「思う」ことはできない。
そこには時間という流れも、両「思う」が位置する場所というものもない。
時間、距離という分母が0である主体と客体の関係は、「無限大」という「全て」である。
これを真摯に認識できたならば、そこには束縛する領域などない。

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