初めてその名を知ったのはギター雑誌に載っていた「バック・オン・ザ・ストリーツ」の記事でのことだった。そして、初めてその音を聴いたのは81年に出たグレッグ・レイクのソロ・アルバムでだった。
ちょうどその頃、大阪(アンダーグラウンド)ハード・ロック界では一部でちょっとした「ゲイリー・ムーア・ブーム」が巻き起こっていた。スネーク・チャーマーというバンドに在籍していた「ストラトキャスターの魔術師」こと大谷令文がゲイリー・ムーアに注目しているらしいという噂だったからだ。そして、たまたま見に行ったアマチュアのコンサートでゲスト出演していたゼファーというバンドが何とその「ニュークリア・アタック」をカバーしていた。そのギタリストこそ、チャーマーを脱退したばかりの大谷令文だったのだ。
それからというもの、ゲイリー・ムーアのレコードを探したが、日本盤は全く出ていなかった。しかし何と自分のバンドのドラマーがGフォースのアルバムを持っていると言うのだ。それも英国ピクチャー盤だった。
早速借りて聴いてみて衝撃を受けた。演奏にも驚いたが、ライン直のディストーション・サウンドが衝撃的だった。自分もカセット・デッキのマイク入力にギターを直結して不自然なディストーション・サウンドを出していたが、まさかプロでこんなことをしているヤツがいるなんてと驚いたのだ。楽曲はポップなハード・ロックなのに、ライン録りのギター・サウンドが全てを台無しにしているアルバムだった。
演奏面で最も衝撃的だったのは、当時のロック・ギタリストで最も速く弾いていたことだろう。自分はピッキングが苦手だったので、ハマー・オン、プル・オフでごまかしていたが、ゲイリーはそうではなかった。早いフレーズを全て、それも豪快なタッチで全てピッキングしていたのだ。当時のギタリストでそんなことをしていたのは、自分の知る限りアル・ディメオラくらいだった。
一部のロック・ギター小僧達注目の的だったゲイリー・ムーアだったが、その翌年に出た「大いなる野望」でブレイクをした(日本だけか・・・)。
そこではストラトをマーシャル直で鳴らしたかのようなストレートなギター・サウンドで聞きやすく、さらにはイアン・ペイス、ニール・マーレイらハード・ロック界大物を迎えたプロダクションで非常にわかりやすいアルバムだったのだ。
さて、ゲイリー・ムーアの魅力はと言えば、豪快なピッキングと鳴きのベンディング&ビブラートに尽きる。今時彼より正確且つ速く弾けるギタリストは数多いが、彼ほどの力強いタッチでバリバリ弾けるギタリストとなるとかなり限られてくる。自分はピッキングには自信がなかったので、あまりピッキングをしないアラン・ホールズワースを聴いても驚かなかったが、ゲイリー・ムーアにはぶっ飛んだ。そしてボーカリストとしても好きだった。ライブではルックスの良いシンガーを据えてはいたが、いつもその力量が不足していた。もっと自分で歌えばいいのにといつも思っていた。
「大いなる野望」のヒットを受けて、何と83年には来日までしてしまった。それも大阪公演はフェスティバル・ホールである。すかさずチケットを入手し見に行ったが、満員御礼状態だった。長身・美形・長脚のボーカルとニール・マレイに挟まれてはいたものの、ロック小僧達の熱い視線を浴びていたのはもちろんゲイリーその人である(今となれば懐かしいヤンキー達含む)。天は二物(ギター、シンガーの力量)を与えたが、三つ目までは与えてはくれなかったようだ。
それから数年が経ち、他に興味が移っていったせいで、全くゲイリーを聴くことがなかった。そして1990年になり、ブルーズ・アルバムが出たと聞きびっくりした。しかしラジオで流れてきたそのタイトル曲、「スティル・ガット・ザ・ブルース」を聴きホッとした。
そう、ブルーズとは言うものの昔と何一つ変わっていなかったからだ。暑苦しいまでのベンディング、ビブラート、日本人の琴線をくすぐる(?)鳴きのメロディは、バック・オン・ザ・ストリート収録「パリの散歩道」そのものだったからだ。
ブルーズに路線転換したと言われたが、そうは思えなかった。彼のルーツの「ブリティッシュ・ブルーズ」をテーマにアルバムを作ったに過ぎない。演奏スタイルは何も変わっていなかったし、ブルーズを取り上げたといっても、既にピーター・グリーン、ジェフ・ベック、クラプトンが取り上げていたような楽曲ばかりだったからだ。
そもそもハード・ロック自体、黒人のブルーズを英国の白人が60年代の機材・流行を背景に解釈して出来上がったものに過ぎない。ブルーズをテーマにアルバムを出してみたら、ちょっとヒットしました程度のものだったのだと思う。
それにしても、昨春の来日公演を見逃したのは痛恨の極みだ。会場がウチから徒歩10分で行ける場所だったのに・・・。

6