ここ数年、大晦日から元旦にかけてのいわゆるカウント・ダウン・ライブに出演していない。
二十才前後は毎年出演するか参加するのが当たり前だった。しかし今でも思い出すのは失敗した記憶ばかりである。
初めてのカウントダウン参加は高2の時、生駒山上でのイベントに於いてのことだった。生駒山は標高たかだか642mだが、大晦日ともなれば当然氷点下まで気温が下がるはずである。さらにステージは野外にあったのだ。この歳になれば、そんな悪条件でまともに指が動くはずはないとイベント出演を辞退するところだが、17歳の自分は何も考えていなかった。
愚かなことに、なんと自分はステージ衣装のみで現場に到着した。素肌にシャツ、それにレザー・ジャケット一枚を羽織っただけである。山上でなくても凍えそうな格好である。普通ならスキー・ウエアにカイロ、手袋にマフラーと完全防備しなければならないのに、まるで秋の平地での装いなのだ。
自分たちの出番は22時頃だった。ステージに立った瞬間に手がこごえそうになったが、ステージ上を走り回り、何とか無事本番を終えることが出来た。しかし、その後翌朝までが大変だった。トリに親友のバンドが出るので、帰らずに現場に残ることにしたのだ。今考えてみれば、よく凍死しなかったものだと思う。やはり若かったということだろう。
次に良く覚えているのは、その数年後、やはり同じバンドで某ライブ・ハウスのカウント・ダウンに出演した時のことである。
この時は既に二十歳頃だったので、自分もメンバーもクルマの免許を取得済みだった。その日もベーシストのクルマでやって来ていた。そして出番も無事終了し、お気に入りのバンドや仲間も数多く出るので、またしても朝方まで残ろうということになった。自分は彼にキーを借り、クルマで仮眠をとることにした。
さて、いざライブハウスに戻ろうとすると、車のキーが見当たらない。きっと周辺に落ちているに違いないと思ったのだが、捜せど一向に見つからない。結局、ロックできないので自分は車に残り、お目当てのバンドは見る事ができなかった。朝になりライブハウスも閉店、スタッフ達も帰ってしまった。
夜が明けたらキーも見つかるだろうとタカをくくっていたのだが、自分の通った道筋をたどってみても見つけることが出来なかった。結局、JAFを呼ぶことにしたのだが、元旦の早朝からすぐに救援がやって来るわけはなく、ロード・サービスが到着したのは、それから4,5時間経ってからのことだった。
結局、その日JAFに入会し、今でも1月になると更新し続けている。毎年、年会費の請求がやってくる度に、自分はいかに愚かだったかをイヤでも思い出す。
そして最後のエピソードは、それから10年くらい経ち、件のバンドもとっくに解散してからのことである。某大阪の一流ホテルのカウントダウン・イベントにあるバンドで出演した。会場は千人ほどの新年を祝う人たちで溢れかえり、22時過ぎから自分たちのライブが始まった。会場は大いに盛り上がり、主催者もご満悦の様子だった。
あと1,2曲で日付も変わるだろうという頃に、自分たちの十八番であるレパートリーを持ってきた。いよいよ新年を迎えるということで、場内の盛り上がりも最高潮に達したのだが、あまりの盛り上がりにシンガーが我を忘れて歌い続け、気が付いたときには既に午前零時を数分過ぎていたのだ。
しかし百戦錬磨のシンガーは落ち着き払ってこう言った。「もう日付は変わったけど、今からあらためてカウントダウンをしよう!いくよ〜、10, 9, 8, 7, 6・・・3, 2, 1・・・ハッピー・ニュー・イヤー!!!」
以来、そのホテルからバンドに一切お呼びが掛からなかったのは言うまでもない。

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