朗読「右頬の薔薇」ストーリー江口ちかる・石部明 川柳・石部明
夢で幾度となく見た塔だった。枯れた蔦が煉瓦に貼りつき、葉の落ちた茎がぷつぷつと泡立ちのような傷をさらしていた。塔にいざなわれ、男はのぼりつめる。窓はない。はるかしたで扉のしまる音がした。さわさわさわさわ。きざはしを花々が打ち寄せてくる。花々は殺人の記憶のように赤く、部屋をみたしはじめた。男の靴を覆い、足を這い上る。首を愛撫し、顔を覆った。息が詰まった。男は花に巻かれ、花に抱かれた。未知の快楽が男をつつんでいた。
◆右頬の薔薇を毎朝剃りおとす
少女は埠頭を目指した。雲が低く垂れこめている。路地の先に海が光った。老人は少女を待っていた。グレーの目をした、痩せた、つつましい身なりの老人だった。少女は老人の手を美しいと思う。少女の口をたやすく覆う大きな手。長い指がエレガントに動くことも少女は知っている。指はブラウスのボタンをすばやく外し、まだ薄い少女の胸をあらわにする。指はまた少女の口腔にさしこまれ、その内部を味わいつくす。連絡船が港に入ってきた。島に渡れば今度こそ戻れないと少女は思う。今夜は嵐になるらしい。
◆稲光りして磔刑の蝶の骨
老嬢の白いエプロンの舌は裂け、執事の傘は渚に沈んだ。諏訪湖の遊覧船は旋回しながら、夕陽を食べている虚無的な世界をまわり、毛の生えた喪の写真を潜り抜けていった。アルカポネの末裔が仏壇の鉦をたたいている。出立の時間だった。
◆てのひらの義眼を葬儀に連れてゆく
別れのときが来た。ひとりにしてほしいと私は言った。無垢の桐の柩のふたを開ける。うつくしく化粧をほどこされた顔を、いろとりどりの花が縁取っていた。幻想の箱庭の都小路を着飾ったちいさな人たちが行きかっている。お迎えの使者なのか、紋付き袴で正装した一群が花のなかを溺れながら進んでいた。私は思わず死顔に頬ずりをする。紅を引いた唇がかすかにあがったようであった。
◆棺のふた取れば眩しく春の京
まだ若い、腕のいい靴職人が、棲まわせてほしいとやってきたのはいつの頃だったのだろうか。うちは手狭だからね、と言うと、大丈夫です、あなたのからだのほんの片隅でよいのですと靴職人は答えた。店を追い出されたという靴職人が可哀想になって、「いいよ」と言ったのは一生の不覚だった。もう顎髭も白髪まじりになってしまった老いた靴職人は、今日も鼻めがねで、女の子の注文だと言う赤いハイヒール作りに精を出しているようだ。靴職人が木槌を振るたびに、私の胃のあたりがチクチク痛む。
◆靴屋きてわが体内に棲むという
物売りの老婆は腰をかがめて、いつもの大きな風呂敷包みを背負ってやってくる。風呂敷の中は仏壇であったり、大きな柱時計であったり、古ぼけた箪笥であったりするのだが、ある日、「あんまり近づくと溺れるよ」といいながら、風呂敷の中からいきなり「琵琶湖」を取り出した。そして水しぶきを浴びながら老婆はにやりと笑った。
◆風呂敷をほどけば溢れでる琵琶湖
剥製屋の薄暗い店内には、さまざまなものが息をひそめていた。折からの夕陽にガラス玉の眼を赤く尖らせた虎、いまにも襲いかからんばかりに片足を上げた象、おどけながらも哀しい目をしている猿の群れや、蝙蝠、鹿、兎もあれば、こんなものまで剥製になるのかと驚かされるニシキ蛇まで所せましと置かれていた。いくら声をかけても店番のいるふうはなかった。だが薄暗い奥の隅に何やら本を読んでいるらしい人影が見えた。そして「こんにちは」と声をかけた私は思わず後ずさりした。その人影も剥製だったのだ。
◆剥製にされて動けぬ剥製屋
記憶の中の妹は黄色いワンピースを着ていた。母が縫った、袖なしの、ひまわりの模様のワンピースだ。遠い夏の日、お化けのようにのびたハス畑で茎にからまっていた妹はほんとうの妹だったのだろうか。ちりちりと世界の焦げる音がする。風が停まった坂の上にゆらゆらと黄色がある。ひまわりが揺れている。妹の背中を追いかけて坂を登り切ると、あしもとは断崖だった。
◆かげろうのなかのいもうと失禁す

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