「言葉派」という流れが川柳の中に定着しつつある。
伝達するための言葉ではなく、表現するための言葉ということだ。伝達するための言葉は意味を伝えるためにある。しかし、表現するための言葉は通常的な意味にこだわらない、言葉そのものによって新しい世界の創造を可能にする。
「言葉派」に対置するものは、仮に「意味派」と定義してみると解りやすいが、「思いを書く」「私を書く」という根拠を持って川柳に向かう多数は「意味派」と仮定してみれば、両者の違いはよく見えてくる。
そんなことを思いながら「leaf」3号を開いてみた。この濃密な世界をどう読むか、さらっと読んだぐらいで軽々と書けるものではないが、「思い」ではなく「言葉」に重心を置いて言語空間を広げて行く作品世界は先鋭的だが、4人が「言葉派」で統一されているわけではない。大雑把にいえば「言葉派」の吉澤、兵頭に対して「意味派」の畑美樹。その中間的位置でもっとも自由に想像の羽を広げ、思いの極致に言葉を沈める清水かおりといってもいいのではないだろうか。それぞれの一句を紹介する。
浅き部屋つまさき立ちの集いあり 畑美樹
桜闇鏡にうつらば異類とならむ 吉澤久良
イミテーション救われたのは鼓動のド 兵頭全郎
明滅の刃物祭りに行ってきました 清水かおり
睡蓮の一つぐらいは首であれ 〃
これは「leaf」を読んでの感想ではないが、川柳の先端を切り拓く言葉派たちは、そのプロセスで「思い」を書くことに否定的な意見が散見される。それを間違いというつもりはない。だがそれは思いを書くと称して日常報告や、感情の皮相を上滑りするつまらない句の否定でしかないのではないか。まだまだ「意味派」にも書かなければならない世界が残されているように思えてならない。

21