添削の功罪
ながく川柳をやっていると、ながいということだけで添削を求められることがある。他者の作品に手を入れるというためらいがあって、かつての私はお断りしていたのだが、川柳教室をもつようになって、最近はあまりこだわってはいない。
もともと添削とは、自作の推敲を他者にゆだねることなのだが、真剣に向き合えば向き合うほど、作者の個性よりも、形式の鋳型に嵌めようとする傾向があり、度が過ぎると作者よりも添削した者の個性が一句に現れることもあり気をつけねばならない。
しかし、初心者にとっては、添削は一つの拠所であって、辞書や書物では学ぶことのできない用語や文法、語法など、あるいは川柳味という特殊な定型観などを、もっとも効率的に身につけるために、作者が信頼する誰かに、こうした手ほどきを受けることは決してマイナスにはならない。だがそれはあくまでも初心者に限られることであって、いつまで添削に頼っていたのでは、自ら自分の個性を摘み取ってしまう行為にしかならない。
最近各地に「生涯教育」とか「ゆとり教育」とかを名目にした地域活動の一環として、川柳教室も組み込まれるようになり、それぞれに講師の手ほどきで川柳を勉強しようとするひとたちが増えている。そしてそこでは、講師の仕事は添削にあり、とまで言われているだが、はたして自信を持って添削できる講師がどれくらいいるのだろうか。自省を込めて言うのだが、川柳の歴史も、古川柳も知らず、ただ川柳を続けてきたという経験と、句会で他人よりすこしはよく抜ける、という実績程度の講師があまりにも多すぎるような気がする。
川柳を作っても誰かに読まれる保証はない。活字になっても感想、批評、観賞の言葉が返ってくることはない。しかし、添削は確実にする側とされる側に「読んだ、読まれた」という信頼関係が生まれる。その信頼関係が、いい関係として川柳に反映されるためにも、添削は「ちょこっと手直し」することではなく、作品と、その背景にいる作者の全人格を引き受ける覚悟で向き合いたいものである。

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