「バックストローク」同人の4人が創刊した「leaf」の、創刊号の感想など何か書かなければと思いつつ、もう2号をいただいてしまった・・。
「leaf」創刊号の巻頭言で、吉澤久良は「私たちの関心は<コトバ>にあり、<コトバ>についてさまざまな思考を積み重ね、<川柳に何ができるか>を模索していく」とテーマを明確に示し、「4人が互いに批評しあうことを通じて自分を確認するという内向きな姿勢」を方針の柱においた。もちろん、これは自慰的な行為を指すのではなく、一つの実験的な試みとして、方法論的に読者の参加を促す編集方針と理解した。
98年、5人によって創刊された「MANO」の編集後記に、編集人の倉本朝世は「我々が関わっているのは言葉を使った遊びである。それならば、自分というものの可能性を賭けて真剣に遊んでみたい」と残し、「「(他の)川柳作家や川柳作品の掘り起こし、再評価の作業を通して、自らの批評眼を磨いていきたい」とあり、ここに二つのテーマが残されている。
どちらも言葉への関心に隔たりはないが、自らの可能性をかけて、新しい川を作ろうとする「MANO」と、もう後がない、という緊張感の中に自らを追い込む「leaf」の、川柳の現状への危機感は、「MANO」創刊時から10数年という歳月の違いを表しているのかも知れない(それほど川柳の現状は、日々崩壊に向かっているといっても過言ではない状況にある)。
創刊号では「しずかにしないか既視の匙だろう」「冷えながら芒の禁忌言い合えり」などの清水かおりが突出していて、(ただ、ほかの読み手が評価する「エリジウム踵を削る音がす」に私は手が出せない)。「かたまりを配る大きな声だして」「ささやきながら蝶の背を押す」など畑美樹の安定感の、そこに読み手の不満が残る。「恋文なら柿の葉寿司の具になれる」「坂に沿うう模様にひとつご相談」などは別にして、空中分解も怖れぬことばの実験にしか私には見えない全郎の作品。「擦過傷 花ざかりの森 忘れ水」「繭の痣 接着する指 ガラスの森」など世界の、あるいは自分自身への違和感が苛立ちのように言葉に現れる吉澤の作品。その四つの異物のぶつかりあう軋みが、今までになかった、という意味で新鮮な興味になる。
余談だが、今年の「ねむらん会」の3分間吟の、畑美樹の言葉を出す位置が随分と自由になったなと思った。具体的には、口から出していた言葉が、背中から、腋の下から、あるいは貝殻骨のくぼみから、不意に飛び出して読み手を驚かす。そして句会吟だから、理詰めの落とし所もうまい。ちらっと2号を見た限りでは、「理詰めの落とし所」を捨てた作品にいいものがあるような気がした。
明日すぐということではないが、もう少し作品にも触れてみたい。

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