岡山市内の喫茶店に、8.22朗読会のメンバー6人が集まった。1人5分という持ち時間の調整もあったし、詩人がどんな話しをするのかという興味もあって出かけてみた。
「虚構」「伝達」「私」「イメージ」「批評」など話題は川柳とあまり変わらなかったが
、「活字は干物」と誰かがいい、私は大きくうなずいた。
確かに「活字は干物」だが、その「干物」に生気を与え、ことばの独自の意味を与えるのが表現ではないだろうか。「干物」を湯で戻して、句に貼りついている現実を再現しても、それは読んだことにはならない。
それにしても、昨日、読み応えがあったと書いた篠田節子の『死都』。これは書くまいと思ったが、最後の数ページでがっかりした。
結局、男は死に、アテネへ、そした妻のもとに帰される。二人の関係の一切を封印するのはいいが、ホテルや病院、船舶会社に、レンタル会社、保険会社に至るまで、私はいなかったことにして欲しいと哀願してまわる薄汚い亜紀は、ホテルの娘に「これからはもっと誠実に生きなさい」と諭される始末で、なんとも後味の悪い結末だが、これが作者の言いたかったことかも知れない。
男を帰したあと、亜紀は呪われたヴァイオリンを持って、再びある筈のない「死都」へでかけ、意識の中に幻覚を求める。
だが、「街の喧騒が迫ってくる。物売りの声、祈りの声。海風がすさまじい悪臭を運んでくる。生きている人間と、死体と、死にゆくものと、汚物と・・」こんな描写が延々と続く。作者にとってはもっとも力を入れた描写だろうが、読み手はこれに似た描写を前半に何度も読まされているだけに、やや食傷気味に読み飛ばしてしまった。

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